このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。(中略)天は矢張り見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。
中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 150−151頁
人生、ままならないことが続くものですが、腐ることなく自らが為すべきことを為していれば、それなりの結果が出てくるものです。
天は見ているということですね。
しかし、人は、為すべきことを為し続けることなく、途中で、投げ出してしまいます。
このような人を天は見捨てます。
たったこれだけのことですが、実際に自身が困難に陥った場合、為すべきことを淡々と為すことができるかというと、できないようです。
腐り、憤り、文句を言い、肩に力が入り、無駄な動きに終始し、為すべきことは為さない。
天を怒らせることばかりをするのですね。そして、天は見ていないと悪態をつく。
実は、天は、よく見ているのですね。よく見ているけれども、手を差し伸べない。
なぜか。天は、しっかり見ることによって、手を差し伸べてはならない人間であると判定しているのですね。
天は、やはり見ている。ただ、人によって手を差し伸べる時もあれば、手を差し伸べない時もある、ということですね。
我々としては、天から手が差し伸べられるほどの人間になるべく、研鑽に努めたいものです。