鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし
佐渡御書 958頁
嫌な人がいるもので、不愉快になることがありますが、ただ単に嫌だと思ったり、不愉快になったりするだけでは芸がないと思いますね。
日蓮仏法を信仰しているならば、日蓮仏法ならではの対処の仕方があるわけで、それを行うことですね。
日蓮の言葉によると、嫌な人の不愉快な振る舞いは、その振る舞いを受けている人が賢人、聖人であるかを試すためであるという。
通常、受け手は賢人、聖人でもありませんから、その受け手は、嫌な気持ちになり不愉快になって、それで終わりです。
しかし、日蓮仏法信仰者としては、それで終わってはいけません。嫌なこと、不愉快なことは、私を試すために出てきたことと考えるのですね。
そして、この嫌なこと、不愉快なことに振り回されず、堂々としていられるならば、賢人であり、聖人であることが証明できると考えるようにしなければなりません。
また、賢人、聖人たるために、より高い次元から、嫌な人の不愉快な振る舞いを観察することです。
そうしますと、嫌な気持ちになることもなく、不愉快になることもありません。
つまり、くだらない人間の振る舞いがあまりにもみっともなく、ばかばかしくなるのですね。
我々としては、いちいち、くだらない人間の嫌な不愉快な振る舞いを相手にせず、バカな人間がいるものだ、と高みから見下ろしておけばよいのですね。
そもそも、そんなくだらない人間を相手にするほど暇ではありませんので、警戒はしつつも、まともに相手にしないことですね。
賢人、聖人かどうか試されているのだと思うだけでよいでしょう。
そうしますと気が楽になるものです。