偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。現代のアメリカの出版業者が、初めて持ち込まれた原稿として旧約聖書を目のあたりにした場合を想像してみるがいい。たとえば、家系について彼がどんなコメントをするかを想像するのはむずかしくない。「ねえあなた」と彼は言うだろう。「この章はぴりっとしていませんな。ほとんど説明もなしに、ただ固有名詞をずらずら並べたって読者の興味を引きつけることはできませんよ。確かに、ストーリーの冒頭は、スタイルもなかなか見事です。それで、私も初めはすこぶる好ましい印象を与えられたのでした。でも総じて、何もかも洗いざらい語りたいという気持ちが強すぎます。さわりの部分を選び出し、余計な個所を省いてください。そして、適当な長さに縮まったら、もう一度原稿をお持ちください。」こんなふうに現代の出版業者は言うだろう。
『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫 68−69頁
所謂、古典といわれるものは、すべてといっていいほど、上記の指摘を蒙るでしょうね。
旧約聖書に限らず、法華経においても固有名詞の羅列があり、その部分は「ぴりっとしていませんな」と言われるでしょうね。
内容に関しては、「なかなか見事です」との評価を得るにしても、語り過ぎとの指摘を受けます。
分量が多いとの指摘ですね。
余計な個所を取り除き、適当な長さにしてくださいというわけです。
『ラッセル幸福論』は1930年の著作ということですから、今から85年も前のことです。
その当時の出版業界ですら、上記のとおりなのですから、今でしたら、どうなるのでしょうか。
このような感じかもしれませんね。
「固有名詞の羅列は意味不明ですね。ここは要りません。ストーリー、スタイルもなかなか見事ですが、少し込み入っていますね。もう少し簡略にしてもらうとよいでしょう。今の読者は、長文を好みませんので、短くしてください。この原稿の要約を作成いただきましたら、それをお持ちください。こちらで、再度、短く編集します」
もしかしたら、そもそも採用されず、出版すらされないかもしれません。
古典は、だいたい冗長です。
御書にしても、冗長な部分がありますし、法華経にしてもそうです。
正直なところ、現代の読者向きの本ではありませんね。
では、御書、法華経の要約を作り、短く編集したものでよいかというと、そうでもないのですね。
要約や短くしたものであると、御書、法華経の魅力が半減するのですね。半減どころか、ほとんど魅力が減じてしまうのですね。
所謂、資料になってしまうのですね。日蓮や法華経製作者の息吹が感じられなくなるのですね。
やはり、古典は、そのまま読むのがよいようです。
ただ、そのまま読むといっても、ただでさえ量が多い古典をあれもこれも読むわけにはいきません。
選択をする必要が生じるのですね。
私の場合、御書と法華経とを選択していますが、人それぞれの選択があり得ます。
クリスチャンの人にとっては、聖書でしょうし、ムスリムの人にとっては、コーランとなるでしょう。
その他、いろいろな選択があるでしょう。
要約でいいならば、たくさん読めるでしょうが、上記のとおり、要約では肝心なところが抜け落ちます。
いたずらに量を求めるのではなく、質を求めるべきでしょう。つまり、自分が読むべき古典を絞り込むことです。
絞り込んだ古典に関しては、何度も読み返すべきであり、この点においては、量を求めるべきですね。