語学の習得にとってもっとも必要なのは、何を目的とするかをまず明確にすることです。日常会話ができるようになることが大事なのか、あるいは原語で本を読めるようになることが大事なのか、それとも職業的に英語を使えるようになりたいのか。そのへんの目的の見極めが大事になります。その目的にあわせて、とるべき方法が決定されます。「**語がなんとなくできるようになるといいなあ」というようなぼんやりした意識では、まず語学の習得はできない。
村上春樹『「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』朝日新聞社 318頁
外国語を習得する方法は(ほぼ)ひとつしかありません。それは外国語を習得しなければ生き残っていけないという環境に身を置くことです。そうでない限り、普通の能力しか持っていない人には、外国語の習得はまず無理みたいです。でもそういう環境に身を置くのは、実際にはけっこうきついですよ。
同書 250頁
よく言われることですが、外国語会話の基本は聞き取りです。聞き取りさえできれば、あとは相手が勝手にしゃべってくれます。そして聞き取りができるようになると、こちらも自然にしゃべれるようになるものなんです。ですから、とにかく聞き取りの練習をなさることがとりあえずはいちばんだと、僕は思います。コツは同じものを何度も何度も、飽きるくらい繰り返して聞くことです。そうしないと身に付きません。
同書 112頁
英語習得のためには、まずは、目的を明確にすることですね。
私の場合、なんとなく英語ができればよいという感じですね。なかなか身に付かないわけです。
取り立てて英会話をしたいわけでもなく、英書の本を読まなければならないわけでもなく、職業的に英語が必要というわけでもありません。
このように書くと英語を習得する目的がないようですが、全くないとも思えません。
ネットにおいて、英語の記事がありますから、それを読みたいとは思います。また、動画にて英語のニュースを理解したいとも思います。
直接、英語で話をしたいという気持ちは特別ないのですが、ネットにある英語には親しみたいと考えています。
情報が日本語だけというのが気に入らないのですね。英語でも情報を取りたい、その情報を知りたいという欲求があるのですね。
全く別の視点を得たいという目的もあるのですね。
英語を「読みたい」「聞きたい」という欲求が強く、「話したい」「書きたい」という欲求はさほどありません。
「読みたい」「聞きたい」に特化するのがよいかもしれません。
ただ、英語習得の過程において、「読みたい」を確実にするために、英文を書くという作業は必要でしょう。
また、「聞きたい」を確実にするために、英語の音読は必須でしょう。
結局、「読む」「聞く」「話す」「書く」をすることになりますが、「読む」「聞く」に焦点を定め、英語習得に勤しむのがよいですね。
日本にいる限り、英語を使わなければならない環境に身を置くことは、まず、ありません。
日本語で十分であり、英語ができなくとも、実際、何も困らないですね。
英語を習得したいという欲求は、ぜいたくな欲求といえるでしょう。
学生時代でしたが、二週間程、インドに旅行に行ったことがあります。
デリーでは、友人がいましたので、友人まかせでしたが、デリーを後にしてからは、一人ですから、自分でどうにかするしかないのですね。
そうしますと、英語が話せるのですね。
不思議な感覚でした。まず、中学1年生及び2年生の英語の教科書が思い出されるのですね。頭の中に電子書籍がある感覚です。
中学1年、2年ですから、現在形、過去形、未来形の表現が可能です。
実際、これらの表現だけで、旅行するに困ることはありません。
ただ、中学3年生の英語の教科書は出てきませんでした。旅行中も思っていたことですが、現在完了の表現ができれば、それはそれでよいのですが、別に使わなくとも意思疎通は図れますし、困らないのですね。ましてや、関係代名詞の表現など全く必要なかったというところでしたね。
よって、中学3年生の英語の教科書は、私の頭の中の電子書籍に組み込まれなかったのですね。
不思議なもので、旅行する上で、必要なことは思い出すが、さほど必要でないことは思い出さないものなのですね。
生きていく上で必要なものだけが思い出されたというわけです。
一人で旅行していたので、確かに、必死でしたね。よって、思い出したのでしょう。
旅行を続けているうちに、段々と英語での意思疎通がスムーズになりました。
それは、インド人が好奇心旺盛で私に話しかけてくるからなのですね。
私は、彼らの英語を聞きます。そうしますと、「このような表現があったな」ということで、私は、その表現を身に付けるのですね。
そして、別の人と話す時、その表現を使うのですね。そうすると、また、彼らから別の表現が出てきますので、それを聞いた私は、また、その表現を身に付けるのですね。
このようなことを繰り返すと、表現が増えていき、ストレスなく英語を話すことができるようになります。
ヴァラナシだったでしょうか、もしかすると、ガヤにいる時だったかもしれませんが、英語で夢を見るに至るのですね。このようなことは初めてであり、びっくりしたものです。
その後、英語で夢を見たいと意識し始めると、見なくなるのですね。それ以来、英語で夢を見たことはないですね。
そして、カルカッタに到着した時には、旅行する分に必要な英語がマスターできているという感じでしたね。言いたいことが英語で言えるという感覚でした。
その時になると日本語でものを考えていませんでしたね。そもそも、日本語が必要ないのですから。
所謂、英語脳だったのでしょう。
一人で旅行ですから、英語ができなければ生きていけず、そのような環境にいたからこそ、英語が使えるようになったということですね。
いい思い出ですが、正直なところ、その時は、きつかったですね。苦しかったともいえますね。
そして、帰国となり、成田空港に降り立って、ほどなくすると、英語でものを考えようとしても考えられなくなったのですね。そして、なにか英語で言ってみようと試みたところ、全く英語が出てきませんでした。
これも不思議な感覚でした。さっきまで、無理なく英語を話せていたのに、日本語の環境に戻った途端、脳が英語を不必要と判断したのか、英語が話せなくなったのですね。
インドに行く前の状態に戻ったという感じです。全く英会話のできない日本人という感覚ですね。
それ以来、日本にいるときに英語を話す機会に巡り合ったことは、ほとんどないですね。
そう、日本にいると、実際に会う人々との間で英語は必要ないのですね。
ただ、ネットが出て来てから、英語に接する機会が増えました。
日本でネットが出始めたころ、ちょっと西洋思想のことを調べてみますと、日本のサイトは貧弱であり、ネットサーフィンするうちに、英語のサイトに行き着くのですね。
しかし、英語が読めませんので、せっかくそのサイトに行き着いても内容を知ることができないのですね。
このようなことから、英語のサイトを読みたいと思いつつ、英語の勉強を始めても、その都度、挫折するということの繰り返しでした。
そうこうしているうちに、日本のサイトも充実しはじめ、日本語で情報を取るのに問題がなくなってきました。
そうすると英語を学ぶモチベーションが下がるのですね。脳が必要ないと判断するのでしょう。
しかし、英語のサイトもそれ以上に充実し、やはり、英語にてネットを楽しみたいと考えるようになり、再び、英語習得に取り組み始めたというわけです。
村上春樹さんの指摘を参考にし、英語を「読める」「聞ける」状態にしたいですね。
マスターすべき英語の範囲を限定し、繰り返し学ぶことですね。そして、マスターした英語でネットを楽しむことですね。