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2015年09月21日

勤行において如来寿量品第十六を読誦する意義

勤行において、妙法蓮華経の如来寿量品第十六を読誦しますが、その意義について考えてみたいと思います。

なぜ、読誦するのかという根本的なところを明確にした上で、読誦すればより価値的です。

日蓮の言葉を確認しながら、考えてみましょう。

問うて云く法華経修行の者何の浄土を期す可きや、答えて云く法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」亦云く「我常に此処に住し」亦云く「我が此土は安穏」文此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在り此の土を捨てて何の土を願う可きや、故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや
守護国家論 71−72頁

寿量品は、法華経二十八品のなかで一番重要な品と位置付けられています。最高の品であり、肝心の品というわけですね。

まずこの点において、寿量品を読誦する意義が見出せます。

日蓮は、その寿量品にある文を3つあげています。

「我常に此の娑婆世界に在り」と「我常に此処に住し」と「我が此土は安穏」との3つです。

ここでいう「我」とは、仏のことですが、この仏が常にこの世の中に存在していると言っています。

仏とは、遠くに存在するのではなく、今、ここにいると言っているのですね。

その仏も、「本地久成の円仏」ということです。本来の仏であり、久遠に成仏した仏、言い換えると永遠の仏であり、円満で完全無欠の仏というわけですね。

簡単に言うと、本仏といってよいでしょう。

この本仏が、今いる場所に存在すること強調し、他の場所を求めるのではなく、自分が今いる場所において、本仏となるよう修行に励むことを勧めています。

寿量品を読誦する意義とは、自らが本仏たり得るためといえるでしょう。

寿量品の最後に、

毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして
無上道に入り 速かに仏身を成就することを得しめんと
妙法蓮華経 如来寿量品第十六 493頁

とあるように、仏の願いは、衆生に仏身を成就させることであり、その仏も本仏であることから、衆生に成就させる仏身も本仏の身となります。

つまり、我々が本仏たり得るために寿量品が存在し、その寿量品を読誦することを通して、我々が自らの中から、本来の仏、本仏を開くということですね。

本仏を成就するために寿量品を読誦するという点を明確にしたうえで、読誦に勤しむのがよいですね。
posted by lawful at 14:30| 御書

2015年09月20日

余計なことは言わないこと

王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す
崇峻天皇御書 1174頁

たとえ最高権力者の王であっても、いちいち思っていることを口にはせず、孔子ほどの賢人も思うことが九つあっても、実際に口に出すのはそのうちの一つだけということです。

余計なことは言わないということですね。

余計なことを言うと不必要なトラブルを招きます。

王や孔子ほどの人間であっても、言ってはいけないことがあるわけですから、我々凡夫などは、言ってはいけないことだらけといってよいでしょう。

ほとんど言うに値しない言葉ばかりであり、黙っておけばよいという次元でしょうね。

いずれにしても、言葉にするときは、必要なことだけを話すようにしなければなりません。

吟味に吟味を重ね、余計なことは言わず、重要なこと、大切なことを言うようにすることですね。

悪口などは言わず、流しておくことですね。

このことは取りも直さず、悪口の対象となる人のことを話題にしないということであり、そもそも、思考の段階において、不必要と認定し、脳内で削除しておくことですね。

一応、不必要と認定する段階で、悪口の対象となる人の好からぬ点を検討して、今後、その害悪が来た場合、対処できる準備は整えるものの、その準備が完了したのちは、削除でよいでしょう。

脳内に悪口の対象となる人が存在している限り、口に出してしまうという虞があります。

脳内において処理をしておくと「九思一言」が我々においても実現できます。

「九思一言」が実践できれば、余計なことが脳内になく、口にする必要もなくなりますので、自分自身も晴れやかな気持ちになれ、いいことだらけですね。

賢人たれば、僥倖が巡ってくるといえましょう。
posted by lawful at 16:04| 御書

2015年09月19日

忍辱の心を起こすことが功徳

無量義経の十功徳品第三には、十の功徳が説かれていますが、その第一の功徳の中に六波羅蜜の功徳があり、その中のひとつが「忍辱」ですね。

瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ
無量義経 十功徳品第三 44頁

瞋りの感情が盛んな人間に対しては、耐え忍ぶ心を起こさせる必要があります。

瞋りとは地獄界の状態ですから、いつまでも地獄界で蠢くのではなく、まともな人間の世界に至れというわけですね。

正直なところ、瞋ったところで、何も得るものはありません。より一層、不愉快になるだけです。

耐え忍ぶということは、実践するのが難しく、つい、瞋ってしまいます。

しかし、そこを瞋らず、忍辱で乗り越えるために、無量義経があるということですね。

もっと言えば、無量義経よりも高位にある法華経に基けば、より一層、忍辱を身に付けることができるでしょう。

このように自分自身の感情をコントロールできることそれ自体が功徳です。

世間一般や迷走している教団がいう功徳とは大違いです。

本来、功徳とは、その人の生命状態そのものが仏であることを意味します。

仏が瞋ったままということはありえず、瞋ったにしても、次の瞬間は忍辱を行じているものです。

そのために無量義経、法華経を自分のものにすることです。
posted by lawful at 18:55| 法華経並開結

陀羅尼、呪文の本来の意味

自他ともの幸福を説く仏教においては、他者に不幸をもたらすことを願う「のろい」は容認されない。天台が『法華文句』で陀羅尼について「よく善を持し、よく悪を遮す」(国訳一切経四八一頁)と述べているように、仏菩薩の名を称える称名も陀羅尼も、善悪を区別しない盲目的な行為ではなく、悪を克服して善をもたらすための祈りであり「明呪」というべきである。
須田晴夫『新法華経論』ラピュータ 384頁

陀羅尼は、もともと、経典を記憶する力、善法を保持する力を意味していることから、「のろい」とは相容れないものですね。

あくまでも善を称揚するものなのですね。

陀羅尼は、呪文の意としても用いられるようになりますが、呪文も、本来は、教法や教理を記憶し保持するために用いたものであって、「のろい」とは関係しませんね。

陀羅尼、呪文は、もともと、善なるものを希求するためのものであり、悪とは正反対のものなのですね。

それにもかかわらず、呪という言葉に「のろい」という意味があるがために、呪文や陀羅尼にマイナスイメージが付きまといます。

もともとの意味を調べますと、全く違うわけで、言葉は正しく認識しておきたいものです。

その上で、言葉に対する信仰、文字信仰が成り立つと思いますね。

仏教といっても経典によって成り立っており、陀羅尼、呪文がたくさんあります。すべて言葉であり、文字なのですね。

よって、仏教信仰者は、言葉を信仰しているといえ、また、文字を信仰しているといえます。

その言葉、文字も「よく善を持し、よく悪を遮す」ものを信仰しているのであって、決して、「のろい」の言葉、文字を信仰しているのではありません。

時折、「のろい」を御祈念項目にしている人を見かけますが、少なくとも、それらの人々は仏教信仰者ではないですね。何教信仰者なのでしょうか。

いずれにしても、陀羅尼、呪文を唱えるならば、最高のものを唱えるべきですね。

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posted by lawful at 15:25| 仏教

2015年09月18日

忘れる技法

嫌なこと、鬱陶しいことは忘れるに限ります。

いちいち思い出しても仕方がないことは忘れるようにしなければなりません。

その割には、英単語はよく忘れます。

逆にすべきですね。

人生の時間は有限であり、しょうもないことに時間をかける暇などないのです。

嫌なこと、鬱陶しいことといっても、ほとんど、その原因となる人間のことですが、そもそも、その人間を思い出す必要があるのかと問えば、その必要性は全くないというのが答えになります。

忘れる義務があると考えておくのがよいですね。

忘れる技法を身に付けたいものです。
posted by lawful at 08:30| 雑感

2015年09月17日

苦楽ともに思い合せて

苛立たしい人に対しては,瞋るのではなく,呆れ果てるという対応が適切です。

また、瞋りの感情も時間が経てば、薄まっていきます。

どうでもいいことがはっきりしてきます。

一時の感情は、所詮、一時のことですから、長い目で見ていくことです。

いかに瞋らないか、という技術を得ることが重要ですね。

ストレスを貯めてはいけません。貯めていいのはお金だけです。

結局、境涯が低いと何事もうまくいきません。

境涯を上げていきましょう。

そのために信仰があるということですね。

ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず
四条金吾殿御返事 1143頁

賢人、聖人ですら、苛立たしい人間に絡まれるわけですから、凡夫たる私に苛立たしい人間が絡んでくるのは当たり前ですね。

ただただ、まともに相手にせず、ほっておくことですね。苛立たしい人間のために貴重な時間、エネルギーを使う必要はありません。

苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ
同書 同頁

苛立たしい人間に絡まれることは、苦しいことですが、楽しいことだけでなく、この苦しいことをも含めて南無妙法蓮華経と唱えることを日蓮は勧めています。

単なる題目で終わらせるのではなく、このように苦しいことをも、それはそれとして受け止めながら、より高い次元に至るための唱題行でありたいものです。
posted by lawful at 21:03| 御書

2015年09月16日

腹立たしい人間に対して瞋らないこと

仕事をしていますと腹立たしい人間と接することがあり、不愉快になるものです。

腹立たしい人間の生命状態は、十界論でいうところの地獄界、餓鬼界、畜生界であり、そもそも相手にするほどの人間ではないのですが、仕事であるため、全く相手にしないわけにもいかないのが辛いところです。

こちらも相手と同じように地獄界、餓鬼界、畜生界の生命になってしまっては何にもなりません。

よって、腹立たしい人間に対しては瞋らないということを徹底することですね。

瞋ったところで何ら得るものはありません。より一層、瞋った自分に嫌悪感を持つだけです。

まあ一寸腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちが既に他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。
夏目漱石『草枕』新潮文庫 38頁

ブログは、十七字の俳句ではありませんが、ブログを書くことにより、「既に他人に変じている」、つまり、第三者の地位に立つことができ、精神衛生上、好ましいと思いますね。

腹立たしい人間の土俵に上がるのではなく、あくまで自分の土俵で勝負すべきですね。相手のペースに乗らず、こちらのペースを堅持することです。

そのためにも、文章を書くことは、優れた対処法といえます。

腹立ちという感情の事柄を言語化することにより、客観的に見る癖をつけておきたいものです。

客観的に見ると、腹立たしい人間が、いかに取るに足らない人間かが明確になり、このような人間をまともに相手にしてどうするのだという気持ちが湧いてきます。

とにかく、瞋らず、冷静に対処する習慣を身に付けることですね。

大体、第一級の人間は、皆、そのようにしていますものね。

我々も第一級の人間になるべきですね。仏教的に言いますと、本仏となりますでしょうか。困難であっても、目指すべき道だと思います。
posted by lawful at 21:28| 文学

2015年09月13日

カルトに入る人の特徴――「中悪人」、「大悪人」であること

カルトに入るのはどのような特徴を持った人かとよく聞かれるのですが、純粋な心と善意にあふれた人たちです。そんなバカな。そういう人たちが悪事を働くわけがないではないか。そう思われる方が多いと思いますが、カルトには悪人はいません。なぜなら、カルトは組織のメンバーに悪人を必要としないからです。純粋さ、ひたむきさを持つ善意の人を選んで勧誘し、利用するのです。カルトのターゲットになった人たちだけがカルトに入るので、カルトが必要としない人はカルトにはいないのです。
櫻井義秀「レジアリンス――回復する力」櫻井義秀編著『カルトからの回復』北海道大学出版会 4−5頁

ここでいう「悪人」は、自分は悪いことをしていると認識して、悪いことをしている人間、つまり「小悪人」のことでしょうね。所謂、犯罪者の部類に入る人間のことですね。また、単に素行が悪い人間も「小悪人」といえ、ここでいう「悪人」に該当するでしょう。

カルト教団としては、このような人間は使いにくく、利用価値もないということなのでしょうね。

確かに、ある新宗教教団において、逮捕歴のある人もいましたが、その人は、教団から重用されることもなく、相手にもされていなかったですね。教団としては、献金、寄付だけもらっとけばよいと考えていたのでしょう。下手に動かれて、組織を引っ掻き回されても困るということなのでしょう。

やはり、教団としては、素行が悪くなく、犯罪者でもない人が利用しやすいですね。

その人に「純粋」や「善意」というものがあれば、なおさら、脅しがききやすくなり、便利というものです。

では、このような「純粋」で「善意」のある人がここでいう「悪人」ではないにしても、本当に悪人でないかといえば、そうとも思えません。

「小悪人」ではないけれども、自分は悪いことをしていると認識せずに、悪いことをしている人間、つまり「中悪人」であったり、自分はいいことをしていると認識して、悪いことをしている人間、つまり「大悪人」であったりするのですね。

「小悪人」ではなく、「中悪人」、「大悪人」であるというわけです。「純粋」、「善意」という仮面はかぶっていますが、実は、「小悪人」以上に悪質なのですね。

だからこそ、単なる犯罪者以上にカルトの害悪は、酷く、たちが悪いのです。

表面だけをみると、確かに「小悪人」ではないので、いい人なのかと思いきや、全くそうではないのですね。

カルト教団は、犯罪という類型に入らないよう注意しながら活動していますので、警察としても立件が困難なのですね。

カルト教団の害悪からすると、暴力団の方が良心的に見えてしまいます。明らかに犯罪という中で活動しているのですから。

我々としては、犯罪であるかどうかという低い基準で人を見るのではなく、犯罪という類型に入らなくとも、人間として行ってはならないことをしている「中悪人」、「大悪人」を見抜き、これらの人たちからの害悪を防御しなければなりません。

暴力団のように、いかつい格好をしていませんので、見分けが困難ですが、注意深く見ていくと分かるものです。

この世の中で、確かに「小悪人」は悪い人間ですが、それ以上に「中悪人」、「大悪人」が悪いということを、しっかりと認識しておくことですね。
posted by lawful at 17:50| 新宗教

2015年09月08日

仏は瞋らないこと

日々の生活において、職場において、瞋りが湧いてくることが多いものですが、いつまでもカッカしていては精神衛生上も悪いですし、体にもよくありません。

大体、瞋りを惹起させる人間は、貪、瞋、痴という特質があります。

十界論でいえば、地獄界、餓鬼界、畜生界の境涯です。

まともにこのような三悪道を相手にしていますと、疲れるだけで何も得るところはありません。

仏法の信仰をしているわけですから、仏界の境涯、仏の境涯を目指すべきであり、そこに解決の道筋があります。

無量義経徳行品第一の文が参考になりますので、確認してみましょう。

若し人は刀杖もて来って害を加え
悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず
『妙法蓮華経並開結』創価学会 19頁

仏のことを説明している箇所ですが、仏は、刀や杖で攻撃されても瞋らないという。

また、悪口や罵倒や辱めを受けても瞋らないという。

強烈な境涯ですね。通常ではありえない境涯です。

しかし、仏には、それが可能というわけですね。

そもそも、仏、仏界という境涯からすれば、地獄、餓鬼、畜生などの境涯は話にならず、相手にするほどのこともないのですね。

次元が違うと言えば分かりやすくなるでしょうか。

根本的に生き方が違う故、かみ合わないということかもしれませんね。

我々としては、とにかく、仏界を目指し、地獄、餓鬼、畜生の境涯の人間に振り回されることなく、また、瞋ることなく生きていくべきですね。

端的に言えば、相手にしないことですね。これでほぼ100パーセント問題が解決します。

三悪道を相手にするほど暇ではなく、人生の時間は有限ですので、無駄なことにさく時間などないのです。

仏は、このようなことを知悉しているのでしょうね。よって、瞋らない。

あくまでも仏法ですから、仏、仏界を基軸に信仰し、我々としては、瞋る必要のないことには瞋らないということを徹底することですね。

そもそも、瞋るとは地獄界の境涯ですから、仏界と正反対の境涯です。仏が瞋ってどうするということですね。気を付けていきましょう。
posted by lawful at 22:40| 法華経並開結

2015年08月22日

小悪人、中悪人、大悪人

世の中には悪人がいますが、それぞれ、大、中、小と程度がありますね。

悪人というぐらいですから、悪いことをしているという点は共通です。

まずは、小悪人から考えてみましょう。

自分は悪いことをしていると認識して、悪いことをしている人間は、小悪人ですね。

犯罪者や暴力団などがそうですね。

悪いことをしていると認識しているからこそ、どのように逃げようかと考えているのですね。

しかし、これらは、小悪人の次元の話です。

では、中悪人を考えてみましょう。

自分は悪いことをしていると認識せずに、悪いことをしている人間は、中悪人ですね。

一般大衆などがこれに当たります。

自分は悪いことをしていると認識していませんので、逃げ隠れもしませんが、ボーっとしています。実は、犯罪者や暴力団より性質が悪いのですね。

では、大悪人について考えてみましょう。

自分はいいことをしていると認識して、悪いことをしている人間は、大悪人です。

新宗教の信者や偏った思想の持ち主などがこれに当たります。

厄介なのは、自分はいいことをしていると認識している点です。よって、改善の見込みはありません。

犯罪者、暴力団、一般大衆よりも性質が悪いのですね。

犯罪者、暴力団は、ある意味、世を忍んで生きています。一般大衆は、ボーっとしているだけです。

しかし、新宗教の信者や偏った思想の持ち主は、ドヤ顔で世の中を闊歩します。

一番悪い人間でありながら、大きな顔をしているのですね。

世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以て、さも名誉の如く心得ている。
夏目漱石『草枕』新潮文庫 138頁

まさに、このような感じですね。

小悪人、中悪人も困った存在ですが、大悪人が一番困った存在です。
posted by lawful at 17:05| 文学

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