なぜ、読誦するのかという根本的なところを明確にした上で、読誦すればより価値的です。
日蓮の言葉を確認しながら、考えてみましょう。
問うて云く法華経修行の者何の浄土を期す可きや、答えて云く法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」亦云く「我常に此処に住し」亦云く「我が此土は安穏」文此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在り此の土を捨てて何の土を願う可きや、故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや
守護国家論 71−72頁
寿量品は、法華経二十八品のなかで一番重要な品と位置付けられています。最高の品であり、肝心の品というわけですね。
まずこの点において、寿量品を読誦する意義が見出せます。
日蓮は、その寿量品にある文を3つあげています。
「我常に此の娑婆世界に在り」と「我常に此処に住し」と「我が此土は安穏」との3つです。
ここでいう「我」とは、仏のことですが、この仏が常にこの世の中に存在していると言っています。
仏とは、遠くに存在するのではなく、今、ここにいると言っているのですね。
その仏も、「本地久成の円仏」ということです。本来の仏であり、久遠に成仏した仏、言い換えると永遠の仏であり、円満で完全無欠の仏というわけですね。
簡単に言うと、本仏といってよいでしょう。
この本仏が、今いる場所に存在すること強調し、他の場所を求めるのではなく、自分が今いる場所において、本仏となるよう修行に励むことを勧めています。
寿量品を読誦する意義とは、自らが本仏たり得るためといえるでしょう。
寿量品の最後に、
毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして
無上道に入り 速かに仏身を成就することを得しめんと
妙法蓮華経 如来寿量品第十六 493頁
とあるように、仏の願いは、衆生に仏身を成就させることであり、その仏も本仏であることから、衆生に成就させる仏身も本仏の身となります。
つまり、我々が本仏たり得るために寿量品が存在し、その寿量品を読誦することを通して、我々が自らの中から、本来の仏、本仏を開くということですね。
本仏を成就するために寿量品を読誦するという点を明確にしたうえで、読誦に勤しむのがよいですね。