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2015年08月22日

お金を使わないとお金持ちになる

断捨離を含め、節約することにより、お金が貯まります。

確かに、節約すれば、お金が貯まるのですが、もっと言うと、そもそもお金を使わなければ、格段にお金が貯まります。お金持ちになってしまうのですね。

千円か二千円持っていたら、ぼくは大金持ちでいるつもりなのです。だって使わないもの、金なんか。だから金持ちです。ほんとうです。あなた方も早くそういうふうになりなさい。
『戸田城聖全集』第二巻(質問会編) 聖教新聞社 233頁

例えば、1万円のものを8000円のもので代用するというのは節約でしょう。

しかし、そもそも1万円のものや8000円のものを買わなければ、1万円なり、8000円が手元に残ります。

それが積み重なると、多額のお金が残ります。

節約という次元でなく、そもそもお金を使わないという次元に至ることが重要でしょうね。

安いからといって無駄なものを買う人がいますが、安いといってもタダではなく、いくらかのお金を支払っているのですから、その時点でマイナスが生じています。

仮にタダのものであっても、必要がないものを家に置いている段階でスペースを無駄に使っていることになり、マイナスが生じています。

とにかく、お金を貯め、お金持ちになるためには、マイナスの要素を取り除くことが必要です。

物品購入だけでなく、思想にしても、宗教にしても、マイナスになるものは排除しておかなければなりません。

プラスになる考え方は、どんどん取り入れていくことですね。先程紹介した戸田城聖さんの発言など、ハッとさせられますね。全く違う視点からものを考えている発言は参考になるものです。

「だって使わないもの、金なんか」と言える境涯になることですね。
posted by lawful at 16:29| お金

2015年08月17日

邪婬の作法?

僧は一人ある故に婬欲とぼしきところに若し有身ば父ただされ・あらはれぬべきゆへに独ある女人を・をかさず、もしや・かくるると他人の妻をうかがひ・ふかく・かくれんと・をもうなり
顕謗法抄 444頁

仏教は、邪婬を罪のひとつとしてあげています。

僧侶が邪婬をする場合、邪婬の作法があるようです。

独身の女性を相手にせず、人妻を相手にするという作法です。

なぜなのかと思うところですが、理由があるのですね。

独身の女性の場合、もし、身籠った場合、父親は誰だと大騒ぎになり、結局、ばれます。

それが人妻であれば、身籠ったにしても、その夫との子供であろうと推測され、僧侶が不倫したことが隠し通せるというわけですね。

なかなか、考え抜かれた作法ですが、正直なところ、あきれますね。

確かに、隠し通せるかもしれませんが、何をやっているのだというところですね。

当世のほかたうとげなる僧の中にことに此の罪又多くあるらんと・をぼゆ、されば多分は当世たうとげなる僧・此の地獄に堕つべし。
同書 同頁

日蓮の指摘ですから、鎌倉時代のことですが、当時から、僧侶の邪婬が多数あったということでしょう。

邪婬の作法も僧侶の間では常識として語られていたと思われますね。所謂、血脈が連綿と続いてきたのでしょう。

間男には気を付けなければなりませんね。
posted by lawful at 08:07| 御書

2015年08月02日

法華経が至高であること

若し法華経ましまさずば・いかに・いえたかく大聖なりとも誰か恭敬したてまつるべき
開目抄上 204頁

ここでいう「いえたかく」とは、インドの王家のことをいっています。分かりやすくいえば、名門の出ということになりましょうか。

ただ、いくら家柄がよく、名門であり、王家の人間であったにしても、法華経がなければ、誰にも敬われることはないということです。

法華経の方が上というわけですね。

法華経は、人間の根本的な成仏について説いた経典ですから、所謂、世法の事柄を超越しており、世法以上ということは、信仰をしている身からすると納得できることですが、信仰をしていない人からすると、ピンとこないでしょうね。

信仰していないわけですから、法華経そのものに価値を見出しておらず、いきおい、世法の事柄に目が行き、ましてや、王家、名門等々を前にしてしまえば、思わず恭敬してしまうでしょう。

しかし、法華経の世界観からすると、王家すら人生模様の一コマにしか過ぎず、恭敬するほどの対象ではないのですね。

世法の感覚からすると王家こそ一番上という感じですが、法華経はそう考えません。

法華経を信仰していれば、上記の御文は理解できますが、信仰していないと理解は不能でしょう。

王家の人間が信仰すれば、王家自身が自らよりも高位のものがあると考え、権力の不正使用が抑えられると考えられます。

しかし、王家が信仰しておらず、王家以外の人間が信仰した場合、王家としては、王家以上の存在を前提に信仰をする人間、集団は厄介な存在と感じられるでしょう。

その後、信仰集団が法華経至上を強調し始めると、王家と摩擦が生じ、信仰集団が迫害に遭うというストーリーになるでしょう。

信仰している人間からすると当たり前のことでも、信仰していない権力者側からすると当たり前とは受け取らず、自分の勢力を脅かす勢力とみえるでしょうね。

そう考えますと、法華経信仰もある程度の勢力を保持し、社会的影響力、権力的影響力のある人にまで浸透しませんと法華経が説く世界の実現は困難ですね。

日蓮が立正安国論を提出するなどして、政治に対し、積極的な態度をとっていた意味も分かります。
posted by lawful at 21:57| 御書

日本の古典、日本精神としての法華経

無数の経典のなかで、日本の文化と日本人のものの考え方に影響を与えてきた経典の数は限られています。たとえば般若経、法華経といったようなものです。法華経は、いまでも創価学会を生みだす力があり、また、たくさんの仏教系新興宗教をつくり出す力もあるというようなものです。それもまた日本での古典、要するに歴史的に見て、日本精神ができあがるうえに大きな役割を演じてきた本の一つということになるでしょう。
加藤周一『読書術』岩波現代文庫 46頁

仏教には多くの経典があります。

その中でも、日本に根付いている経典は少ないものです。

法華経は、他の経典に比べ、日本での影響力が強い経典です。

僧侶でない在家の人々が勤行をしますが、法華系の教団の人は、当然のことながら法華経を読誦します。

法華系以外の教団において、在家の方がその宗派の経典を読誦しているか、詳らかにしませんが、法華系の教団ほど熱心ではないと思われます。どちらかというと、経典は僧侶まかせなのでしょう。葬式の場面を思い返すと、在家が勤行するのは、創価学会ぐらいでしょうか。

法華経には、僧侶、在家に関わらず、読誦せしめる力があるのでしょうね。

教団としては、日蓮宗各派だけでなく、新宗教団体の創価学会、霊友会、立正佼成会という巨大教団を生み出した力が法華経にはあります。

謎めいた経典といえます。

この謎めいた経典である法華経は、今後も、日本に多大な影響を与え続けていくことでしょう。

我々としては、日本の古典、日本精神の本という側面から、法華経を見直し、研鑽に努めたいところです。
posted by lawful at 19:49| 法華経並開結

全部読まないこと、全部読めないこと

「岩波文庫ぐらいは中学生のうちに全部読んでおかなければ一人前になれないぞ」。何人もの先輩からそう聞かされた。
今から惟えば、御当人たちも全部読んでいたとは思えない。当時の既成概念では「文庫」は必読古典名作選と信じられていたから、型通りの読書の奨めだったのかもしれない。
『廣松渉哲学小品集』小林昌人編 岩波書店 44頁

ここでいう中学生は、旧制中学のことですから、現在でいうと高等学校の学生ということですね。

いずれにしても、高校生に対して、岩波文庫の古典を全部読めとは、多大な要求ですね。

心意気はよしとしますが、全部読めるわけはありません。

また、全部読む必要もないでしょう。

若い時は、全部読もうと意気込むのですが、実のところ、大して読めないもので、その現実に唖然とするものです。

全部読むのは理想でしょうが、不可能な事柄です。

そうはいっても、全部読めとの強迫観念は強いようです。

「文庫ぐらいは全部読んでおかないと」というのは大層な強迫観念であった。
この強迫観念から、この齢になった今でも深層では逃れきれていない。
同書 44−45頁

50歳を超えた人間の深層に、全部読めとの強迫観念が残っているというのですから、強烈ですね。

私も、30代の頃までは、全部読めとの強迫観念があったと思います。その頃は、断捨離以前でありましたから、本棚にたくさんの本がありました。

全部読むぞと思っていたのでしょう。ただ、ほとんどの本は読まずに処分となりました。

断捨離を始めてから、全部読めないという当たり前の現実に気付いたのですね。

それからは、繰り返し読むべき本のみを残しました。

全部読めという考え方から、繰り返し読む本を厳選するという態度に変わったのですね。

加藤周一が言うように、

「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません。
加藤周一『読書術』岩波現代文庫 98頁

ということですね。

読むことばかり考えるのではなく、読まないことを考えることが重要です。

読む本の選択と読まない本の選択とは表裏の関係にある。
同書 同頁

実は、本を読むということは、無数にある本の中である一冊を選んでいるということであり、その他の本を読まないということになります。

ある本を読むことは、即ち、ある本を読まないことですね。

全部読むではなく、全部読まないと考えますと、では、何を読むという問いが浮かび上がってきます。

繰返し読むべき本は数少ないわけで、その選択にその人の個性が滲み出ます。

それ以外の本に関しては、図書館にて借りておけばよく、乱読でもよいと思います。もちろん乱読といっても、読める量は限られており、

はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。
同書 同頁

わけで、やはり、全部読むという考え方は、そもそも破綻しているのですね。

当たり前ですが、全部読まない、全部読めないというのが答えでしょう。

その上で、自分自身にとって、然るべき本を読んでいくことですね。
posted by lawful at 19:23| 読書

『人とお金』斉藤一人

商売で一番大切なことは、とにかく「儲け」を出すことです。
斉藤一人『人とお金』サンマーク出版 29頁

「儲け」が出なければ、事業資金が足りず、借金をして、ゆくゆくは借金だらけになり、事業は潰れます。

このようにして、潰れる事業、会社は一定数発生します。

「儲け」を出すという一点に集中すれば、智恵も出ると思うのですが、そもそも、潰れる会社の社長は、「儲け」を出すことに集中していないのかもしれませんね。

根本的なことが分かっていないということでしょう。

あくまでも「儲け」があっての事業ですから、「儲け」がなければ何もないわけで、「儲け」にこだわらないという段階で、潰れる道を突き進んでいるとみて間違いありません。

ただ、すぐに潰れるわけではなく、数年、数十年かけて潰れるので厄介ですね。

潰れるなら、すぐに潰れた方が良心的というものです。

しかし、そうはならず、じわじわ潰れていくのですね。途中で幸運な「儲け」などを挟みながら、事業の規模を大きくしながら、潰れていくのですね。

貧乏神には、「貧乏な波動を出している人にとりつく」という性質があります。
だから、本当に貧乏をやめたかったら、意識や口グセを徹底的に変えることです。
同書 47頁

この指摘で重要なのは、「徹底的に変える」という点でしょう。

なんとなく変えても、人は変わりません。変われればいいなと夢想しても、人は変わりません。

やはり、「徹底的に変える」必要があります。

常日頃の行動において、貧乏くさい振る舞いは、徹底的に排除しておかなければなりません。

食事の際、買い物の際、出費を行う時も、今までの習慣で、貧乏くさい行動をとりがちですが、そのような時に、「これではいけない」と自問して、行動そのものを変えることです。

安いという言葉に踊らされることなく、それなりにいいものを食べ、買うことです。

無理をすることはありませんが、少しずつ、レベル、ランクを上げていく工夫は必要です。

ただ、値が張っている割には、その値段に見合わないものには、気を付けておく必要があります。

高ければいいというわけではなく、安いもの以上に喰わせものの商品があり、これに引っ掛かると、高額であるだけに、一気に貧乏になってしまいます。

このようにして、貧乏神は、必死に抵抗してきますので、こちらとしては、「徹底的に」対応するほかありません。
posted by lawful at 17:55| お金

2015年07月29日

ちょっとしたことを始め、効率を考えること

人の日常が変わらないのは、最初の一番小さな行動「スモールアクション」ができていないからなのです。そのスモールアクションさえもできていないのに、いきなり大きな行動「ビッグアクション」を求めてしまうため、すぐに挫折してしまうのです。
小山竜央『5分の使い方で人生は変わる』KADOKAWA 24頁

生活、人生が変わるには、小さなことの積み重ねが必要でしょうね。

それにもかかわらず、大きく変えようとして、上手く行かず、結局、何も変わらない。もっと言うと、以前より悪化しているという人が多いかもしれません。

「スモールアクション」という視点は重要ですね。

私の場合、御書を読んでいるわけですが、「スモールアクション」で読んでいますね。勤行の際、2頁を読む程度です。それ以上読むこともありますが、何十ページも読むことはありません。

御書は、1600頁の書ですから、2頁ずつであれば、約2年で読み終わります。

実際、読み終えた時は、1年半かかったように記憶しています。

読むぞ、読むぞと意気込んでいる時は、1頁も読んでいないのですね。

しかし、毎日、2頁程度であれば、10分もあれば読めますので、難しいことではありません。

「スモールアクション」を続けると、物事の完遂が可能です。

成果を出す人の仕事の本質というのは、もっと頑張ろうなどと思わないで、頑張らなくていい方法を考えることにあるように思います。
同書 177頁

無駄な動きをして、忙しそうにしている割には、儲けが少ない社長さんがいるものです。何らの成果も出していないのでしょうね。

忙しいふりをするのが目的なのか、成果を出すこと、つまり、利益を上げることが目的なのか、よく分かっていないのでしょう。

利益を上げることを考えるならば、効率を良くしようという考えに至るのですが、そうならないところを見ると、何も分かっていないということですね。

目的は、成果ですから、成果が上がればよいわけです。より一層、成果を上げようとするならば、時間、エネルギーは有限ですから、頑張らなくてもよい方向に舵を切らざるを得ませんね。

頑張ってどうにかなることには限度があります。限度を超えるためには、頑張るという発想を捨てなければなりません。

しかし、頑張っていると、それなりに充実感があるものですから、その快感に囚われてしまうのでしょう。

目的を明確にしておきませんと、充実感とやらで、道を誤りますので注意しておきましょう。
posted by lawful at 22:38| 雑感

瞋りと愚癡とを取り除く方法

人間、生きている限り、瞋りの感情に苛まされ、つい、愚癡をこぼしてしまうものです。

そのような時、どうすればよいのか。法華経を見て考えてみましょう。

若し瞋恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋を離るることを得ん。若し愚癡多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離るることを得ん。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 496頁

ポイントは、観世音菩薩を恭敬するというところですね。

いたるところで観音信仰を目にしますが、このような相当な功徳があるからこそ、信仰されているのですね。

この観世音菩薩を大切にすると、瞋りの感情が収まり、愚癡を言わなくてもよい状態になるようです。まさに功徳といえます。

観世音菩薩の力が莫大ということですが、そもそも、この観世音菩薩普門品は、法華経の内、第二十五の品として存在しています。

つまり、法華経を大切にすることは、すなわち、観世音菩薩を大切にしていることに繋がるのですね。

法華経、略さずに言うと妙法蓮華経ですが、この妙法蓮華経に南無することにより、観世音菩薩の功力を得ることができるわけです。

南無妙法蓮華経という題目は、単なるお題目ではなく、妙法蓮華経の中にある事柄を現実化するための題目と考える方がより実践的ですね。

南無ということは、帰依する、帰命するということですが、自らの命を吹き込むことと考えるとより実践的になります。

妙法蓮華経に自らの命を吹き込み、妙法蓮華経から多大な功徳を得る。そして、再び、自らの命を吹き込み、再び多大な功徳を得る。この繰り返しが唱題行なのだと思います。

当然のことながら、法華経を読まなければ、法華経を現実化するといっても、何のことかチンプンカンプンでしょうから、まずは、法華経そのものを読むということが求められます。

南無妙法蓮華経という題目をあげていきながら、観世音菩薩普門品第二十五のとおり、瞋りを鎮め、愚癡を取り除くことが肝要です。そのための題目なのですから。

題目を唱えていながら、瞋りのまま、愚癡だらけであるならば、その人の題目は、偽物と判断してよいでしょう。法華経通りでないのですから。

自分の題目が本物か、偽物か、法華経を読んで確認する作業が欠かせませんね。
posted by lawful at 17:40| 法華経並開結

自らに仏を観ること、本仏を見ること

仏と申す事も我等の心の内にをはします・譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ
十字御書 1491頁

仏法の根本は、自らの内に仏があることを観て、その仏を開いていくことです。

しかし、凡夫は、自分の中に仏があることを知らず、あっちふらふら、こっちふらふらという状態です。

知らないのですから開きようがありません。

あなたの中に仏があると言っても、「そんなものがあるものか」と悪態をつくのが関の山でしょう。

信仰とは何かというと、自らの仏の存在を信じることができるかどうか、ということですね。

他人を信じるのではなく、他人の集団である組織体を信じるのではなく、あくまでも自分の中にある仏を信じるということです。

単に、自分を信じるというわけでもないのですね。自分の中の取るに足りないところは、信ずるに値しませんから、信仰の対象になり得ません。

そうはいっても、仏なるもの、本仏なるものを認識することは困難です。

よって、信仰の次元での事柄となるわけです。

認識できるならば、認識しておればよいので、信仰する必要はありません。

「石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし」とあるように、仏とは不思議なものなのですね。信仰を通してしか接点が得られないといえましょう。

自らの仏を信仰し得たならば、その後はどのように信仰を続けていけばよいのか。日蓮の言葉を見てみましょう。

我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき、きさきになりても・なにかせん天に生れても・ようしなし
富木尼御前御返事 976頁

自らの仏を疑わないならば、何らの嘆きもありませんよと言われています。

女性信徒宛ての手紙ですから、妃を例えにして、妃になったところで成仏が叶わないならば、意味がないと言っています。

また、天に生まれたにしても、成仏が不能であれば、価値はないと言っているわけですね。

世間的な位がいくら高くても、楽園のようなところがありそこに生まれることができたにしても、あくまでも根本は成仏ですから、その成仏という観点からすると、妃や天など、もはや議論にならない次元のことという姿勢が窺われます。

目指すべきは、仏、本仏、成仏というわけですね。

この信仰が透徹していくならば、嘆きなし、ということですから、嘆きがある場合、自分の信仰はまだまだであると分かります。その都度、自らの仏に立ち返り、信仰に磨きをかけ続けるというのが大事になります。
posted by lawful at 15:34| 御書

2015年07月28日

「法水写瓶」「血脈相承」を検討する

日蓮正宗の教義に日蓮本仏論があり、その本仏からの「法水写瓶」「血脈相承」ということで、代々の法主に受け継がれ、法主は特別であると強調されることがあります。

ただ、日蓮仏法からすると、釈尊も本仏であり、日蓮も本仏であり、凡夫も本仏ということですから、当然、我々も信仰を透徹させることによって本仏となります。

これといった差はないわけですね。所詮、信仰心次第ということです。

文証は、本尊抄にある通りですね。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 246頁

受持すれば、信仰すれば、因果の功徳が得られるということで、別の言い方をすると本仏たり得るということです。

それも、思いもかけず宝の集まりが降ってくるというイメージですね。

日蓮は、重ねて、法華経方便品の文を以て、釈尊と一切衆生とが共に仏であること、もっと言えば、本仏であることを強調しています。

「法水写瓶」「血脈相承」というのが日蓮正宗の特徴をあらわす教義ですが、我々からすれば、別にどうでもいいわけです。

日蓮正宗が「法水写瓶」「血脈相承」を主張することは、日蓮正宗の内部のことですから、お好きにどうぞ、というところですね。

我々の態度としては、あくまでも、「御書」「法華経」を軸に信仰をするだけですね。

そうはいっても、一時期は、日蓮正宗の教義におんぶにだっこで甘えていたことは確かであり、大御本尊だ、法水写瓶だ、血脈相承だ、伝統があるんだ、総本山だ等々と言って、安心しきっていたわけで、思考停止信仰者であったことは、反省しなければなりません。

どこかに確実なもの、絶対なものを欲するのが人間である以上、日蓮正宗の教義は、そのような人々にとって魅力的でありました。また、便利でもありました。

取るに足らない自分を誤魔化すためには、確実な絶対な何がしらのものが必要です。

このようなものを欲する態度は、まさに、他力本願であり、浄土宗、念仏宗の態度に近いですね。

日蓮は、守護国家論、立正安国論で、このような他力本願の態度を強烈に批判しました。誤魔化さずに自らの信仰によって自らの仏を開けと主張していたわけです。

日蓮にとっては、秘儀は必要ないでしょうね。日蓮は、とにかく、文字で法門を綴った人です。ある時は大胆に、ある時はこと細やかに法門を明らかにしていった人です。秘すという態度はありません。書いているのですから。物証を残しているのですね。

そもそも、一切経、大蔵経は、すべて公開されており、比叡山に行けば、全部参照でき、読めるわけで、その比叡山にて研鑽をしてきた日蓮ですから、このような開かれた中で連綿と仏教が引き継がれてきたという伝統の中にいた人が、あえて秘すという発想にはならなかったでしょう。

密教だなんだといって、秘密の法門と言いたい人もいるでしょうが、このような人は、真言密教の気があるといえますね。

日蓮は、このような真言密教的な態度も執拗に批判しました。なぜ、明らかにしないのか、ということですね。日蓮は、何かにつけ、文証を出せですからね。秘密の法門などと言うと、日蓮から笑われるでしょう。

また、秘儀などと言いたい人の心理を考えますと、自分だけは素晴らしいものを持っていると言いたいのでしょうね。ほかの人にはないけれども、自分には秘儀なるものがあるといい気になりたいのでしょう。

このような態度は、自分だけがすごいと思う自惚れた態度ですから、やや禅的ですね。日蓮は、このような禅の態度も厳しく批判しました。自分だけでどうする、ということですね。

日蓮にとっては、「法華経」という根本となる経典があったわけで、念仏的、真言密教的、禅的な態度は必要なく、法華経的な態度で十分でした。

それこそ、余計なことをする必要はないという考え方なのですね。「正直捨方便・不受余経一偈」という態度ですね。

そう考えますと、「法水写瓶」「血脈相承」とは、余計なものに見えてきますね。

日蓮的ではないですね。もっと言うと、日興的でもないともいえましょう。

そうしますと、一体、日蓮正宗とは、誰を始祖としているのでしょうか。よく分からなくなりますね。

「御書」を読み、「法華経」を読めば、答えは出ており、豊潤な法門を目の当たりにすることができます。「法水写瓶」「血脈相承」という、言ってみれば、小ネタなど、どうでもよいことであるということに気付くでしょう。

日蓮仏法は、矮小な仏法ではなく、広がりのある仏法です。

日蓮その人も捉えどころがないほどの大きな人物です。その日蓮からすれば、小さい湯呑のお茶を別の小さい湯呑に注いで喜んでいる姿は想像できませんね。

法華経薬草喩品にあるように「世間に充足すること雨の普く潤すが如し」「我れは法雨を雨らして世間に充満す」というのが法華経のスケールであり、日蓮的といえるでしょう。規模が違うということですね。
posted by lawful at 21:47| 御書

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