「岩波文庫ぐらいは中学生のうちに全部読んでおかなければ一人前になれないぞ」。何人もの先輩からそう聞かされた。
今から惟えば、御当人たちも全部読んでいたとは思えない。当時の既成概念では「文庫」は必読古典名作選と信じられていたから、型通りの読書の奨めだったのかもしれない。
『廣松渉哲学小品集』小林昌人編 岩波書店 44頁
ここでいう中学生は、旧制中学のことですから、現在でいうと高等学校の学生ということですね。
いずれにしても、高校生に対して、岩波文庫の古典を全部読めとは、多大な要求ですね。
心意気はよしとしますが、全部読めるわけはありません。
また、全部読む必要もないでしょう。
若い時は、全部読もうと意気込むのですが、実のところ、大して読めないもので、その現実に唖然とするものです。
全部読むのは理想でしょうが、不可能な事柄です。
そうはいっても、全部読めとの強迫観念は強いようです。
「文庫ぐらいは全部読んでおかないと」というのは大層な強迫観念であった。
この強迫観念から、この齢になった今でも深層では逃れきれていない。
同書 44−45頁
50歳を超えた人間の深層に、全部読めとの強迫観念が残っているというのですから、強烈ですね。
私も、30代の頃までは、全部読めとの強迫観念があったと思います。その頃は、断捨離以前でありましたから、本棚にたくさんの本がありました。
全部読むぞと思っていたのでしょう。ただ、ほとんどの本は読まずに処分となりました。
断捨離を始めてから、全部読めないという当たり前の現実に気付いたのですね。
それからは、繰り返し読むべき本のみを残しました。
全部読めという考え方から、繰り返し読む本を厳選するという態度に変わったのですね。
加藤周一が言うように、
「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません。
加藤周一『読書術』岩波現代文庫 98頁
ということですね。
読むことばかり考えるのではなく、読まないことを考えることが重要です。
読む本の選択と読まない本の選択とは表裏の関係にある。
同書 同頁
実は、本を読むということは、無数にある本の中である一冊を選んでいるということであり、その他の本を読まないということになります。
ある本を読むことは、即ち、ある本を読まないことですね。
全部読むではなく、全部読まないと考えますと、では、何を読むという問いが浮かび上がってきます。
繰返し読むべき本は数少ないわけで、その選択にその人の個性が滲み出ます。
それ以外の本に関しては、図書館にて借りておけばよく、乱読でもよいと思います。もちろん乱読といっても、読める量は限られており、
はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。
同書 同頁
わけで、やはり、全部読むという考え方は、そもそも破綻しているのですね。
当たり前ですが、全部読まない、全部読めないというのが答えでしょう。
その上で、自分自身にとって、然るべき本を読んでいくことですね。