仏と申す事も我等の心の内にをはします・譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ
十字御書 1491頁
仏法の根本は、自らの内に仏があることを観て、その仏を開いていくことです。
しかし、凡夫は、自分の中に仏があることを知らず、あっちふらふら、こっちふらふらという状態です。
知らないのですから開きようがありません。
あなたの中に仏があると言っても、「そんなものがあるものか」と悪態をつくのが関の山でしょう。
信仰とは何かというと、自らの仏の存在を信じることができるかどうか、ということですね。
他人を信じるのではなく、他人の集団である組織体を信じるのではなく、あくまでも自分の中にある仏を信じるということです。
単に、自分を信じるというわけでもないのですね。自分の中の取るに足りないところは、信ずるに値しませんから、信仰の対象になり得ません。
そうはいっても、仏なるもの、本仏なるものを認識することは困難です。
よって、信仰の次元での事柄となるわけです。
認識できるならば、認識しておればよいので、信仰する必要はありません。
「石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし」とあるように、仏とは不思議なものなのですね。信仰を通してしか接点が得られないといえましょう。
自らの仏を信仰し得たならば、その後はどのように信仰を続けていけばよいのか。日蓮の言葉を見てみましょう。
我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき、きさきになりても・なにかせん天に生れても・ようしなし
富木尼御前御返事 976頁
自らの仏を疑わないならば、何らの嘆きもありませんよと言われています。
女性信徒宛ての手紙ですから、妃を例えにして、妃になったところで成仏が叶わないならば、意味がないと言っています。
また、天に生まれたにしても、成仏が不能であれば、価値はないと言っているわけですね。
世間的な位がいくら高くても、楽園のようなところがありそこに生まれることができたにしても、あくまでも根本は成仏ですから、その成仏という観点からすると、妃や天など、もはや議論にならない次元のことという姿勢が窺われます。
目指すべきは、仏、本仏、成仏というわけですね。
この信仰が透徹していくならば、嘆きなし、ということですから、嘆きがある場合、自分の信仰はまだまだであると分かります。その都度、自らの仏に立ち返り、信仰に磨きをかけ続けるというのが大事になります。