ただ、日蓮仏法からすると、釈尊も本仏であり、日蓮も本仏であり、凡夫も本仏ということですから、当然、我々も信仰を透徹させることによって本仏となります。
これといった差はないわけですね。所詮、信仰心次第ということです。
文証は、本尊抄にある通りですね。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 246頁
受持すれば、信仰すれば、因果の功徳が得られるということで、別の言い方をすると本仏たり得るということです。
それも、思いもかけず宝の集まりが降ってくるというイメージですね。
日蓮は、重ねて、法華経方便品の文を以て、釈尊と一切衆生とが共に仏であること、もっと言えば、本仏であることを強調しています。
「法水写瓶」「血脈相承」というのが日蓮正宗の特徴をあらわす教義ですが、我々からすれば、別にどうでもいいわけです。
日蓮正宗が「法水写瓶」「血脈相承」を主張することは、日蓮正宗の内部のことですから、お好きにどうぞ、というところですね。
我々の態度としては、あくまでも、「御書」「法華経」を軸に信仰をするだけですね。
そうはいっても、一時期は、日蓮正宗の教義におんぶにだっこで甘えていたことは確かであり、大御本尊だ、法水写瓶だ、血脈相承だ、伝統があるんだ、総本山だ等々と言って、安心しきっていたわけで、思考停止信仰者であったことは、反省しなければなりません。
どこかに確実なもの、絶対なものを欲するのが人間である以上、日蓮正宗の教義は、そのような人々にとって魅力的でありました。また、便利でもありました。
取るに足らない自分を誤魔化すためには、確実な絶対な何がしらのものが必要です。
このようなものを欲する態度は、まさに、他力本願であり、浄土宗、念仏宗の態度に近いですね。
日蓮は、守護国家論、立正安国論で、このような他力本願の態度を強烈に批判しました。誤魔化さずに自らの信仰によって自らの仏を開けと主張していたわけです。
日蓮にとっては、秘儀は必要ないでしょうね。日蓮は、とにかく、文字で法門を綴った人です。ある時は大胆に、ある時はこと細やかに法門を明らかにしていった人です。秘すという態度はありません。書いているのですから。物証を残しているのですね。
そもそも、一切経、大蔵経は、すべて公開されており、比叡山に行けば、全部参照でき、読めるわけで、その比叡山にて研鑽をしてきた日蓮ですから、このような開かれた中で連綿と仏教が引き継がれてきたという伝統の中にいた人が、あえて秘すという発想にはならなかったでしょう。
密教だなんだといって、秘密の法門と言いたい人もいるでしょうが、このような人は、真言密教の気があるといえますね。
日蓮は、このような真言密教的な態度も執拗に批判しました。なぜ、明らかにしないのか、ということですね。日蓮は、何かにつけ、文証を出せですからね。秘密の法門などと言うと、日蓮から笑われるでしょう。
また、秘儀などと言いたい人の心理を考えますと、自分だけは素晴らしいものを持っていると言いたいのでしょうね。ほかの人にはないけれども、自分には秘儀なるものがあるといい気になりたいのでしょう。
このような態度は、自分だけがすごいと思う自惚れた態度ですから、やや禅的ですね。日蓮は、このような禅の態度も厳しく批判しました。自分だけでどうする、ということですね。
日蓮にとっては、「法華経」という根本となる経典があったわけで、念仏的、真言密教的、禅的な態度は必要なく、法華経的な態度で十分でした。
それこそ、余計なことをする必要はないという考え方なのですね。「正直捨方便・不受余経一偈」という態度ですね。
そう考えますと、「法水写瓶」「血脈相承」とは、余計なものに見えてきますね。
日蓮的ではないですね。もっと言うと、日興的でもないともいえましょう。
そうしますと、一体、日蓮正宗とは、誰を始祖としているのでしょうか。よく分からなくなりますね。
「御書」を読み、「法華経」を読めば、答えは出ており、豊潤な法門を目の当たりにすることができます。「法水写瓶」「血脈相承」という、言ってみれば、小ネタなど、どうでもよいことであるということに気付くでしょう。
日蓮仏法は、矮小な仏法ではなく、広がりのある仏法です。
日蓮その人も捉えどころがないほどの大きな人物です。その日蓮からすれば、小さい湯呑のお茶を別の小さい湯呑に注いで喜んでいる姿は想像できませんね。
法華経薬草喩品にあるように「世間に充足すること雨の普く潤すが如し」「我れは法雨を雨らして世間に充満す」というのが法華経のスケールであり、日蓮的といえるでしょう。規模が違うということですね。