まず仕事部屋の本と雑誌を選別した。まとめてみると、読もうと思ってとっておいたけれど、ついに読まなかった本、雑誌、ビデオがこんなにあったのかと、ため息が出た。「いつかきっと資料になるだろう」と思ってとってあった本や雑誌は、その大半が二度と役に立つこともないと知った。
井形慶子『イギリス式お金をかけず楽しく生きる!』講談社 154頁
「いつかきっと資料になるだろう」というのがキーワードですね。
そう、資料になると思ってしまうのですね。しかし、資料にはなり得ない。つまり、ただのゴミというわけです。
本や書類は、紙であり、一枚一枚は軽量ですが、重なると相当な重みのあるものと化します。収集する時は、大したことがなくても、処分する時には、重労働を強いられます。知性の象徴である本で重労働とは、皮肉なものです。
以前の私もたくさんの本がありました。いずれ読むだろうという本もたくさんありましたが、読むこともなく、処分しましたね。
CD、DVDにしても、ほとんどは、再び聴かず見ずですから、処分しました。一度も見ることがなかったDVDもあったのですから、あきれるばかりです。ものを買うことに快感があったのでしょうか。若しくは、収集癖があったのでしょう。
本を収集している時は、あとで役に立つだろうと思うのですね。いつか、いずれ、あとで、という言葉に象徴されるように、今ではないのですね。全部、先々なのですね。
先々というのは未来志向であり、それはそれで結構なのですが、その未来の見通しが甘いという致命的な欠陥があるのですね。
読み切れないほどの本を買っておきながら、いずれ読めると勘違いするのですね。なぜでしょうね。
本の冊数と自分の残された時間を考えると、どう考えても読み切れないのですが、本を収集している時は、読めると思うのですね。
ある時に猛烈に本が読めるときが来ると夢想していたのかもしれません。
しかし、今、読めないものが、どうして先々読めるようになるのか。自分の中で突然変異が起こるとでも思っていたのでしょう。分かりやすく言うと、ただのおバカさんということですね。
自分をただのおバカさんと認めるのは辛いことですが、事実は事実として認識するほかありません。誤魔化しても、意味がありませんからね。
大半の本を処分したとはいえ、それでも数十冊は蔵書があります。その中で、読んでいない本が3冊あったので、まずは、読みました。なかなか参考になる良書ではありましたが、再び読むかと自問したところ、二度目はないと感じましたので、処分することにしました。
多くの本を処分したと思っていても、やはり、処分しなければならない本が出てくるのですね。
本以外でも、もう使うことのない紙袋、3つもあるイヤホン、もう使うことがないアダプター、うまく作動しないプリンタなども処分しましたが、断捨離をしているようで、まだまだということでしょう。細かく再点検すると、いろいろ出てきます。
生きている限り、何がしらのものを購入しますので、その都度、使用後は処分しておかないと、家が要らないものだらけになります。
油断するとものが増えるという時代ですから、出口も大事ですが、入口の時点で要注意しておくことですね。