そのような時、どうすればよいのか。法華経を見て考えてみましょう。
若し瞋恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋を離るることを得ん。若し愚癡多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離るることを得ん。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 496頁
ポイントは、観世音菩薩を恭敬するというところですね。
いたるところで観音信仰を目にしますが、このような相当な功徳があるからこそ、信仰されているのですね。
この観世音菩薩を大切にすると、瞋りの感情が収まり、愚癡を言わなくてもよい状態になるようです。まさに功徳といえます。
観世音菩薩の力が莫大ということですが、そもそも、この観世音菩薩普門品は、法華経の内、第二十五の品として存在しています。
つまり、法華経を大切にすることは、すなわち、観世音菩薩を大切にしていることに繋がるのですね。
法華経、略さずに言うと妙法蓮華経ですが、この妙法蓮華経に南無することにより、観世音菩薩の功力を得ることができるわけです。
南無妙法蓮華経という題目は、単なるお題目ではなく、妙法蓮華経の中にある事柄を現実化するための題目と考える方がより実践的ですね。
南無ということは、帰依する、帰命するということですが、自らの命を吹き込むことと考えるとより実践的になります。
妙法蓮華経に自らの命を吹き込み、妙法蓮華経から多大な功徳を得る。そして、再び、自らの命を吹き込み、再び多大な功徳を得る。この繰り返しが唱題行なのだと思います。
当然のことながら、法華経を読まなければ、法華経を現実化するといっても、何のことかチンプンカンプンでしょうから、まずは、法華経そのものを読むということが求められます。
南無妙法蓮華経という題目をあげていきながら、観世音菩薩普門品第二十五のとおり、瞋りを鎮め、愚癡を取り除くことが肝要です。そのための題目なのですから。
題目を唱えていながら、瞋りのまま、愚癡だらけであるならば、その人の題目は、偽物と判断してよいでしょう。法華経通りでないのですから。
自分の題目が本物か、偽物か、法華経を読んで確認する作業が欠かせませんね。