若し法華経ましまさずば・いかに・いえたかく大聖なりとも誰か恭敬したてまつるべき
開目抄上 204頁
ここでいう「いえたかく」とは、インドの王家のことをいっています。分かりやすくいえば、名門の出ということになりましょうか。
ただ、いくら家柄がよく、名門であり、王家の人間であったにしても、法華経がなければ、誰にも敬われることはないということです。
法華経の方が上というわけですね。
法華経は、人間の根本的な成仏について説いた経典ですから、所謂、世法の事柄を超越しており、世法以上ということは、信仰をしている身からすると納得できることですが、信仰をしていない人からすると、ピンとこないでしょうね。
信仰していないわけですから、法華経そのものに価値を見出しておらず、いきおい、世法の事柄に目が行き、ましてや、王家、名門等々を前にしてしまえば、思わず恭敬してしまうでしょう。
しかし、法華経の世界観からすると、王家すら人生模様の一コマにしか過ぎず、恭敬するほどの対象ではないのですね。
世法の感覚からすると王家こそ一番上という感じですが、法華経はそう考えません。
法華経を信仰していれば、上記の御文は理解できますが、信仰していないと理解は不能でしょう。
王家の人間が信仰すれば、王家自身が自らよりも高位のものがあると考え、権力の不正使用が抑えられると考えられます。
しかし、王家が信仰しておらず、王家以外の人間が信仰した場合、王家としては、王家以上の存在を前提に信仰をする人間、集団は厄介な存在と感じられるでしょう。
その後、信仰集団が法華経至上を強調し始めると、王家と摩擦が生じ、信仰集団が迫害に遭うというストーリーになるでしょう。
信仰している人間からすると当たり前のことでも、信仰していない権力者側からすると当たり前とは受け取らず、自分の勢力を脅かす勢力とみえるでしょうね。
そう考えますと、法華経信仰もある程度の勢力を保持し、社会的影響力、権力的影響力のある人にまで浸透しませんと法華経が説く世界の実現は困難ですね。
日蓮が立正安国論を提出するなどして、政治に対し、積極的な態度をとっていた意味も分かります。