妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり
四信五品抄 342頁
妙法蓮華経の五字とは、何か。
日蓮によりますと、経文でないようです。義でもないということですから、何がしらの意味内容を示すものでもないようです。
妙法蓮華経二十八品の意、つまり、心であるという。
言葉にできないほどのものともいえましょうか。
信仰をはじめたばかりの人は、妙法蓮華経の心といっても、ぴんと来ないでしょうし、法華経の法門についての研鑽を深めているわけでもありませんので、何にもない状態での信仰となります。
そうであっても、妙法蓮華経の五字を唱える行を行うならば、自然と妙法蓮華経二十八品の意、心に到達するという。
法華経通りの人生が歩めるということですね。平たく言うと功徳があるということです。
記の十に云く「恐くは人謬り解せん者初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推り此の初心を蔑にせん故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」
開目抄 226頁
信仰をはじめたばかりの人の功徳が少ないかというと、そうではないのですね。
初心の功徳は大きいらしい。
それが法華経の功力ということなのですね。
信仰者のレベルが浅くとも、功徳が深いことをもって、法華経の力が絶大であることが示されるのですね。
我々凡夫は、実のところ、いつまで経っても初心の行者でしょう。
初心の行者だからといって、功徳が少なければ、正直なところ、信仰を続けるのは困難です。欲がありますからね。
しかし、法華経の力は絶大であるから、初心の行者であっても、功徳は莫大というのであれば、信仰が続けやすいというものです。