後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべし
顕謗法抄 452−453頁
「知識」とは、中国古典では、知人、知り合いのことですから、悪知識といえば、悪い知人、知り合いということになります。
もっと言うと、人の幸せを妨害する悪い奴となりましょう。
先々のことを考える人にとっては、悪縁に気を付けることは当然のこととしながらも、もっと気を付けなければならないのが悪知識であるという。
今から思い返せば、新宗教団体の構成員の人々の多くは、悪知識でしたね。
御書は読まない、法華経といってもポカンとしている人々ですから、そもそも、宗教団体の構成員たる資格がないのですね。
その割には、教団において大きな顔をしています。所詮、その程度の教団であったということでしょう。
実は、教団とはいいつつ、宗教団体ではなかったのかもしれません。
では、何だったのでしょうか。寄合?
今となっては、教団そのものは、どうでもいいことですので、よいのですが、悪知識の巣窟であるということは、しっかりと認識しておかなければなりません。
信仰は、教団で行うのではなく、自分が行うものです。
その点を勘違いしていますと、教団に一杯食わされます。
貴重な時間、お金、エネルギーを吸い取られます。
教団と距離を置けば、時間、お金、エネルギーを確保することができます。
本来、自分がしなければならないことをすればよいのですね。
信仰を行うならば、御書、法華経の研鑽に勤しむべきでしょう。
あえて求めるならば、善知識を求めるべきでしょう。
しかし、この善知識と出会うことは稀です。
よって、まずは、自分自身が善知識になるべく、信仰、研鑽に励むことです。
信仰する意味とは、自らが善知識になることといえるでしょうね。