有智の明匠とおぼしき人人の臨終の思うやうにならざるは是大謗法の故なり
題目弥陀名号勝劣事 112頁
智慧があり、第一級の人間と思われている人も、いざ、晩年の姿において、ままならない姿をさらすことがあり、それは大謗法のせいだということですね。
手厳しい指摘ですね。
人間、元気なうちは、ごまかしがきくというものです。
しかし、元気がなくなる晩年、ごまかしがきかなくなり、その人の本来の姿が出てきます。
言い換えると、その人が行ってきたことの集大成が晩年にあらわれるということですね。
大謗法があれば、その大謗法に見合った晩年が待ち受けているわけです。自分の思うようにならない晩年となるのですね。
晩年の姿をみれば、その人が分かるといえましょう。
ある意味、若い時(20代、30代)、勢力がある時(40代、50代)、判断能力が優れている時(60代、70代)はいいのですが、それ以降は、若くもなく、勢力も衰え、判断能力も落ちますから、80代以降は、ほとんど能力でどうにかなる年代ではありません。その人そのものが問われる年代なのですね。
その年代において、どうなるか。
思うようにならない晩年なのか、それとも、思うようになる晩年なのか、ここでその人が幸福であるかどうかが分かります。
厳しい現実でしょうが、考えてみれば、当たり前のことともいえます。
ごまかさずに生きていくということが大切ですね。
まともな信仰、価値のある信仰をすることによって、思うようになる晩年を迎えたいものです。
だいぶ先のことですが、今から考えておくことでしょうね。
死ぬ数年前に考えればよいことだ、などと言う人もありますが、それでは間に合わないでしょう。
そもそも、いつ死ぬか分からないのですから、常に考えておくべき事柄ですね。
思うようにならない晩年になってからでは遅いということです。