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2017年07月10日

受傷一年を迎える

基本近所で済ませたいタイプなので、ネットで検索。幸いにも近所には鍼灸院や整骨院は多くある。
C鍼灸院にメールを送った。誠実な回答が返ってきた。
鍼灸の院長は女性。同じ場所で整骨院もある。予約をして初めての治療は2015年の7月31日、とにかく打つ鍼の量が多い。60本ほど打ってくれた。数が多ければいいというものではないのだろうが、全身に障害のある身としては、どう身体が変化していくか楽しみだった。

このC鍼灸院は土曜・日曜営業しているのが嬉しかった。いつも土曜の最終15時を予約した。今でも1か月先まで予約を入れている。土曜にジムに行って、マッサージと鍼治療を1時間程度、それから飲みに行くという習慣になった。
鍼の効果なのか、筋トレの効果なのか、身体の稼働は良くなっていると感じた。一般的に受傷後半年で症状が固定するとか言われているようだ。そんなことは信じたくなかったし、回復しか考えなかった。

U接骨院はこの頃卒業した。
「ウー・ウー」が急に小さくなったと思ったら、かかっているテレビでニュース速報が流れていた。多分そっちが気になって顔を上げたのだろう。「テレビ見てたんかい!」
とても人間的で嫌な感じではなかったが、「ウー・ウー」の意味も解らないし、C鍼灸院に毎週行くことでまかなえるように思った。

退院して7月まではこんな感じだった。
8月・9月はジム→鍼を繰り返した。この頃には仕事で出張にも出かけられるようになっていた。久しぶりの新潟ではおいしい酒と魚を味わった。ただ、食べる量はだいぶ減った。
酒もほとんど元通りのペースで飲みに行くようになっていた。見た目は全くの健常者だった。
「元通り」に近い姿に見えると、病人扱いはされず遅くまで飲むこともあった。
基本、近所で飲むし、帰りはタクシーなので大丈夫だった。が、部屋でよろめいて擦り傷を造ることもあった。

退院後の初ゴルフは9月20日。ホールインワンもしたことのある笠間カントリークラブ。
飲み仲間たちが多く集まってくれ、復活コンペとして楽しんだ。スコアは110を超えたように思う。
中途半端に脳が覚えているスイングをしようとするのがダメ。身体がついて行かないのだ。
それを始めとして年内は6回ゴルフをした。ただ前のようにドライバー250ヤードなんて夢の夢で、180ヤードがやっとだった。8Iで155ヤードだったのが120ヤード。クラブを振りきることが難しかった。
それならば、とジジイゴルフに徹した。飛ばせない自分を悲しんでも仕方ない。とにかく前に進む、バンカーなどのリスクは避ける。無理しない。年内に1回だけ100を切ることができた。

10月のT君主催のコンペでは司会復活も果たした。このころのFBを見る限りは、良く飲みにも行っていたようだ。つまり受傷1年経たずして、昔の生活に近い位までは復帰できた。
これも、自分の努力なんかよりも仲間に恵まれたことが大きいと思っている。

しかしながら症状は相変わらずだった。身体機能は良くなっているのだが、痺れ、疼痛といった症状は変わらない。ただ、これらの症状は「神経が異常反応」しているだけなのだ。痛いと思わないようにする・痺れていると思わないことにすることにした。
そして受傷1年を迎えた。
冬になるのが怖かった。身体が冷えるのは良くないことは多くの情報から学んでいた。冷えないようヒートテックをたくさん買った。また、健康食品も退院後は飲んでいた。痺れ対策にビタミンB12、コンドロイチン、前の鍼灸院でもらった酵素ドリンクもいい感じだったので万田酵素も購入した。
寒くて震えると、脚が動かなかった。気圧の変化にも影響を受けた。
ただ、酒を飲むと血行がよくなり症状は緩和された。

精神的には落ち着いていた。出来にくくなったことはそれで仕方ない。痛みと痺れを忘れる以上の忙しさや楽しさを探すしかない。

医療費控除をしなければ。高額医療の限度額があるとはいいながら、結構な治療費を支払っている。
鍼などの費用も控除対象だ。
しかし、費用の大半は個室費。よほど理由がないと差額ベッド代は医療費控除の対象にならない。
確か入院した時、個室しか空いていなかった。リハビリ病院でも空きを待っていたのだが、希望したとはいえ個室しか空かなかったようだった。
両方の病院に行き、担当医師に個室にせざるを得なかったと書いてもらうことができた。もちろんそれぞれ4320円の文書料は取られたが。

医療費控除のために領収書を整理していて改めて入院時の資料を見た。リハビリ計画や症状のペーパー。
病名には頸髄損傷の他に脊柱管狭窄症、後縦靭帯硬化症の文字が。後縦靭帯硬化症は国から難病指定されている病気だ。
入院中に聞いていたのは、頸椎が普通より細いということだけ。
椎弓形成術という手術をして「もういくら転んでも大丈夫」という意味は、細いままだとまた頸髄を損傷する恐れがあることだったことだと解ったのは医者から教えてもらったのではなく、ネットで。それに加え、後縦靭帯が硬化していたのか。

受傷前からあった肩こりや痺れはこれが影響していた?まぁ、今となってはどうでも良いことなのだが。

受傷して丁度1年、2015年のクリスマスイブがやってきた。
生きていることに感謝。ようやく1歳になったと思った。
posted by shigenon at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 頚髄損傷

2017年07月04日

退院後の生活A

ジムの他は何をやるか?前からチェックをしていた中国の鍼灸院には入院中に予約を入れていた。
電車で行くことだけが心配だった。
座れない時、電車のブレーキなどの揺れにはなかなか対応できなかった。吊り革を握ってはいるのだが、握力の弱さで耐えきれない時があった。乗り換えも含めて30分程度。今もそうだが、優先席で譲ってくれる人には感謝している。
中国の鍼灸の待合室は一杯だった。

最初に先生の問診があり、頸髄損傷であることと手の痺れを治したいと言うと「治ります」との言葉。
信じるしかなかった。
ベッドにうつ伏せになり、10本程度の中国鍼(日本のと比べて太い)を打つ。そのあと電気を流してもらう。15分か20分で終了。それで6500円。仰向けでも打った方が良いと言われ仰向けでも鍼をしてもらう。これも6500円。「裏」「表」で13,000円。
早く治すには1週間に一度の治療が必要と言われる。

その中国の鍼灸院は「どんな難病も治す」とHPに掲げているため、様々な患者さんが来ていた。
結果3回しか行かなかったが、いつも初診の問診票を書いている人が多かった。完全予約制で、いつも待合室は一杯だった。
脊髄損傷で車いすに乗った男性、広島から来ていた母娘。皆がすがる思いで来ていたのだろう。

何故3回で辞めたか?どうも僕には効果が感じられなかった。それと電車に乗って行くのが面倒だった。4回目の予約を入れる前に、近所の鍼灸院を探して予約して行ってみた。

近所のO鍼灸院には電話で「頸髄を損傷しているが、手の痺れなど緩和できるのか」と尋ねていた。その時の回答としては「良くすることができます」だった。どこの院も治せると答えるものなのだろうか。
初めて行ったのは4月22日。ここでダメなら中国の鍼灸に戻ればいいやと思っていた。

担当は女性の副院長だった。軽くマッサージをした後に10本程度の鍼。ここは電気を通さないようだ。
その後、活法整体・・例えば足を押さえられて外に倒すといった・・をしてもらい、後は生活のアドバイス。足首・手首を冷やさないようにとか。フットバスが気持ち良かった。1回500円。これは家にあればいいなと思って、帰ってからアマゾンで購入した。(結局、あまり使っていない)
日によって支払額は変わった。初回は1万を超えたが、2回目からは6000〜8000円位だった。

初回の印象が良かったので中国の鍼灸はやめて、O鍼灸院に通うことにした。ここも毎週1回行った。
ここは女性の患者さんが多かった。産後の骨盤調整らしい。待合室には赤ちゃんがいつもいっぱい。
決して子供は嫌いじゃないのだが、一斉に泣き出すときもあり施術中に気になるときもあった。
日によって施術内容が違うのだが、何を基準に変えているのかが解らなかった。
また違う施術をする度に「○○入ります!」と大声で他の施術者に叫ぶ。居酒屋か。
平日しか予約を入れてもらえなかった。病院のリハビリをこの鍼の日に会わせた。

このO鍼灸院に通いながらも毎日ジムに通った。普通であればそろそろ筋肉が付くのだが、荷重が軽いためか筋肉の付きは遅かった。

会社は休んでいたが、規則正しい生活はしていた。酒もたばこも少しずつリハビリしていた。
受傷前日に行っていた居酒屋Yには時々顔を出した。酒の強さは前と同じくらいに回復?していた。
近所を歩いていると、昔よく行っていた整骨院の院長とばったり会った。頸髄を損傷したことなどを話すと、一度来たらと誘われた。ここは保険の効く接骨院。ここにもしばらく通った。

入院の費用は結構かかった。会社は休んでいる間、健康保険からは療養費が出ていた。当然、高額医療の申請も。また、入院保険からは手術費が20万円、入院期間に1万×60日、その後の通院に1万×30日が出る。
ただ、その後の通院が「病院」「鍼灸院」でないと出なかった。接骨院もしばらく通ったが、あまり効果を感じなかったので行かなくなった。
posted by shigenon at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 頚髄損傷

2017年06月14日

リハビリ病院での生活A

移った病棟では約50日過ごしたが毎日の回診はなく、1週間に一度回診があったかと思えば、全くない週もあった。ナースセンターの前の個室だったが、そこに常駐している病棟医はこちらに関心がないようにさえみえた。
でも気にしなかった。とにかく「動く」ようにならないと。
このころの症状はかなり回復してきていた。病室からリハビリ室までは結構あったが、杖なしで歩いて行けるようになったのが2月中旬。もちろん背後で倒れないよう見守ってもらってだが。
といっても、リハビリ室のベッドがいっぱいで地面のマットでのリハビリになれば、マットに座れば起き上がることにひと苦労。
少しは歩けるようになったものの、両手の痺れは良くも悪くもならず。また、左手は単に動くだけ。
OTさん担当の手は相変わらずタオルの手繰り寄せとかで興味のわくトレーニングはなし。肩こりは相変わらずなので、時間の半分は肩もみをしてもらっていた。
特に左の三角筋あたりが凝るというより、ズキズキした感じ。また、各所に灼熱感などの皮膚異常を感じ始めていた。

脚はインナーマッスル・・特に腸腰筋とかを鍛えるトレーニング。担当OTさんより担当PTさんの方が臨床経験も豊富だったので、肩関節までを見てもらう。
左腕がまっすぐ上まで挙がらないことと、右側に動かすことが難しかった。これはゴルファーにとって致命的な状況。
いつも見舞いに来てくれているT君たちは、相変わらず毎週ゴルフに行っているよう。早く復帰しないと。でもゴルフどころか自立できるのか?
とにかくリハビリ時間だけを楽しみにし、それ以外の時間はベッドで寝ていた。体力が無くなった身体には3回のリハビリがこの頃は精一杯だったのだろう。
母親も居てくれたし、一度戻った父親も来てくれていた。また友人たちも日を空けずに来てくれていた。
「元通り」になって、みんなにお返しがしたかった。
しかし、自分の症状に対しての状況や予後について病院の方から何か言われることは一度もなかった。


posted by shigenon at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 頚髄損傷

2017年06月02日

年が明けて手術

年明け少しして、リハビリはベッド上から車いすの乗り移りまで進んだ。それは人に抱きかかえられて。
最初は車いすに乗るだけで、自分で動かすことはできなかった。
なんとか日々回復していく。左足が少し動くようになる。
リハビリもベッドからリハビリ室で行うようになった。美人PTのIさんに言われたのが「手術が終わって1月の終わりには一人で乗り移りが目標ですね」
僕ははっきり言った、「1月終わりには歩きます!」

担当OT氏は若い人で、動かない手でタオルを寄せ集めたり、穴の開いた板に棒を刺したりするのだが、動きづらいのでイライラが募るだけだった。今から思えばリハビリは積み重ねだと解るのだが、脚よりも手が動かないのはストレスだった。毎日ベッドまで送ってもらった後に、うまく言って5分ほど肩を揉んでもらったのが嬉しかった。

毎日の医師の回診では「治る見込み」の話は一切なく、調子はどう?的な会話のみ。
雄一救いだったのが、リハビリの親方・N医師が時々診察してくれたこと。担当のPTとOTに対して、患者の前であっても厳しく指導される姿は頼もしかった。
ある時、N医師にいきなりケツの穴に指を突っ込まれた。肛門の括約筋の状態で予後がわかるらしい。
「うん、歩けるようになる」と言われた時は嬉しかった。Iさんがいたので恥ずかしかったけど。

僕は本来、几帳面で慎重な性格だった。少なくとも18歳くらいまでは。それが歳とともに楽天的というか、いいかげんというか。今回のケガの深刻さはまだ全く動かない左手で身をもってわかっているくせに、「治る」いや、「治す」と思っていたのだろう。それは今も同じ。

とうとう手術の日が来た。2015年1月15日。しかし、手術の具体的な説明がない。「狭い頸椎を広げます」程度。主治医のI先生は、若くていい先生に思えるけどあまりにも説明がなかった。
この病院は脳神経外科の手術で有名な病院。あとで知ったけどちゃんと整形外科もあるのに、なぜか脳神経外科が担当。手術はI先生でなく、「専門ではないのだけど、何例か実施したことのある上手な先生がします」という脳神経外科のA先生が執刀。なんとも・・・。
もう、自分の身体の状態はどうしようもないし、転院することも思いつきもしないし、A先生が挨拶にこられて一目みて「賢そう」「テレビゲーム上手そう=器用」で腹は決まった。

大病院だけあって看護師さん・看護助手さんも沢山いて、それぞれの方にお世話になった。特にシモの世話。小はチューブから排出されるからいいけど。中枢神経障害は排泄に難を及ぼす。これは退院してもしばらく変わらなかった。
座薬や色んな下剤を試した。でも出すときはケツの下に“プラ製の受け”を敷いてもらって出す。
あっ、そうそう1月中旬までオムツしていたんだ。

手術の朝、当番の看護師に「首を切るのだったら、髪の毛は大丈夫なの」って聞いた。
どうも忘れていたよう。楽しそうに必要以上刈り上げられてしまった。ふつうはどこまで刈るとか指示あると思うのだが?

手術についてはもう何も考えないようにしようと思っていた。なるようにしかならない。「神経をキズつけて重篤な状態になることもあります」みたいな内容の書類に親がサイン。
そして何の感情も持たずに手術室に運ばれていった。

手術室で全身麻酔。目が覚めたら自室だった。5時間半かかったという記憶があるけど、これは手術開始から目覚めまでだったのか。とにかく生きて目が覚めた。
その日はどう過ごしたのか覚えていない。ただ首の後ろからチューブが出ており、その穴の周りはどうなっているのかと、そこをどうやって塞ぐのかが気になっていた。結局、2,3日後に塞ぐのだが、またまたホッチキスだった。
I医師からは、「もういくら転んでも大丈夫だから」と言われた。この時はこの意味が良くわかっていなかったのだが後に理解できることになる。
posted by shigenon at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 頚髄損傷
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2014年クリスマスイブのプレゼントは最悪でした。 「頸髄損傷」というケガなのか病気なのか・・その症状との戦いの記録と現在の日々をアップします。 (2018年4月追加) 不全の頸髄損傷は「健常な人」に見えます。“ふつうに見える”様に努力をしています。が、反面、「もう良くなったんだ」と思われがち。 骨折とは違い、中枢神経の損傷は完全回復はしないという現実。 「健常に見える」「もっと良くなるよう努力する」「もう治っているんでしょ」の狭間で何とか毎日を過ごしています。
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