10時半くらいに家を出て、会社の駅に着いたら蕎麦を食って、桃色インコ母さんと話しながらタバコを吸って会社に入る。出勤の強要はないが、会社でないと出来ないことの処理。
地下鉄の通路や会社への道路といった、毎日歩く道で自分の状態を評価できていた。それが在宅になってできない。久しぶりに通勤時のコースを歩くが、歩きが良くも悪くもなっていない状態であることに気づく。
まあ、悪くなっていないことを喜ぶべきなのだろう。これまでも劇的に変化したことなどなかった。
ダッシュの効果は?なのだが、地下鉄の階段を降りやすくなったくらいか。足首に少し柔軟性がでている。
何の障害もない状態であれば、何も意識せずに身体の動作は行える。障害を持って初めて、出来ない動作ができる喜びを感じる。その動作も、常に意識しないとできない。
それがいつしか意識せずともできる動作になる。全てではない。今だ意識しないとできない動作もある。
この違いって何なのだろう。
想像だ。脳からの指令の道が障害で寸断されている。そこに新しい迂回路が出来て命令をくだせるようになる。その迂回路を通ることが当たり前になったら、指令スピードも速く末端に伝わる。
それが、塞がった道の前で一回考えて、そうだ、迂回路だという選択をしていたら時間がかかる。
このようなイメージなのだが、果たして正しいだろうか。
その迂回路を整地して太いバイパスにしないといけないのだろう。これまでの道が封鎖されたから、そちらへ行かないよう看板を立てる必要もあるのだろう。
それを人体でどう実現できるか。
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