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2019年12月09日

藤原四家(ふじわらしけ)

藤原四家(ふじわらしけ)は、
藤原不比等の4人の息子が興した藤原氏の四つの家の総称。近年では藤原氏四家ともいう。

藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年)
藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年)
藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年)
藤原京家 - 藤原麻呂(695年 - 737年)
藤原は氏であり家名でも苗字でもないため、明治以前においては「藤原家」と称する公家は存在しない。藤原四家とは藤原家ではなく、藤原氏の「南家」、藤原氏の「北家」、藤原氏の「式家」及び藤原氏の「京家」の総称である。

武智麻呂の館は南に有るを以て南家(なんけ)と号し、房前公の館は北に有りて北家(ほっけ)と号す。宇合公は式部卿を兼ねられしも式家(しきけ)といひ、麿は左京大夫を兼ねられるを以て京家(きょうけ)とぞ号しけり。

津野氏(つのし)

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津野氏(つのし)は土佐国高岡郡の豪族。土佐七雄の一つ。高岡郡のうち中西部の津野荘・山間部の津野新荘・檮原荘を拠点とした。

絶家 天正6年1578年 
本性 藤原北家基経流
種別 武家
主な根拠地 土佐国高岡郡津野郷
津野之高
津野基高
支流、分家 中平氏


歴史
平安時代の前期、摂政・関白として朝政を支配した藤原基経には数人の男子があったが、とくに長男時平、次男仲平、四男忠平は「三平」と呼ばれた。土佐の戦国時代の守護七雄の一に数えられた津野氏は、藤原仲平の後裔と伝えられている。

津野氏は、家伝によれば藤原基経の後裔、藤原経高(つねたか)を始祖とする。経高は罪を得て延喜10年(910年)伊予に下り浮穴郡川上庄山内谷を経て、同13年(913年)に土佐国に入り、高岡郡津野山を開拓し名字を津野に改めと伝えられているが信憑性は低い。
高岡郡津野山が現在の高知県高岡郡津野町付近であるか高知県須崎市吾井郷付近であるかは判然としない。(後述の津野荘の項参照)
津野氏は高岡郡姫野々に姫野々城を築き、以後、中世を通じて、津野荘の地頭として発展した。
津野氏も土佐一条氏や大平氏と並び文人として知られた。
中興の祖とされる津野之高(ゆきたか、名は光高(みつたか)とも)は伊予河野氏の出身とされる。
津野基高(もとたか)は、天文15年(1543年)一条房基に降伏して、家臣として存続を図る。基高の孫、勝興(かつおき)は天正6年(1578年)に没し、津野氏の正統は途絶える。

津野荘
津野荘は京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現・高知県須崎市吾井郷)にあった。本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。 また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。 新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある。名称からの推測では津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後山深い津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる。

系譜・歴代当主
藤原基経ー摂政・関白
津野経高

安芸(藝)氏

3_wari (1).jpg

安芸(藝)氏
安芸氏(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。
安芸氏の出自は、通説では壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に味方した結果、土佐に配流となった蘇我赤兄の子孫が土佐の東端である安芸郡などに拡大して台頭し、国人になったものと伝わる。ただし別説も多く、詳細な出自に関しては不明である。

室町時代に強勢となった安芸氏は、香美郡大忍庄に侵出して勢力を拡大した。安芸氏が勢力拡大に成功した背景には、安芸川という交通の要衝を利用した貨幣経済の発展に、土佐という土地経営を巧妙に生かして成長したのが要因といわれる。永享11年(1439年)、当主の安芸元実(もとざね、摂津守)が摂津国内で戦死(大和永享の乱の影響によるものか)し、分家の畑山氏より安芸元信(もとのぶ)が養嗣子に迎えられた。しかし、応仁の乱で東軍(細川勝元方)へ加勢した元信とその嫡男の元康(もとやす)が共に戦死するなど苦境に見舞われる。元信・元康の死後は再び畑山氏より元信の実弟である安芸元盛(もともり)が当主に迎えられて家の苦境を乗り切るも、以降の勢力拡大策は停滞することになった。とはいえ、戦国時代には土佐七雄の中でも「安芸5000貫」と称されるほどの土佐東部を代表する大国人として君臨し、なおも強勢を保った。戦国時代の大永6年(1526年)には隣接する七雄の1つである香宗我部氏を破って勢力を拡大し、さらに元盛の曾孫・安芸国虎の代に国内の名家である土佐一条氏と姻戚関係になって全盛期を迎えた。

しかし香宗我部氏を破って勢力を拡大したことから長宗我部氏との緊張関係に陥ると、永禄年間の初期、国虎が長宗我部元親の属領である香美郡夜須に侵入したことにより両家は敵対する[2]。当初は東の安芸氏よりも、北の本山氏攻略に力を傾注していた元親に対し、一条兼定からの援軍を得た国虎が優勢で一時は元親の居城・岡豊城を落城寸前に追い込むなどしたが、土佐国内の動乱を憂慮した一条兼定による安芸氏・長宗我部氏の和睦を進めたため、一時的に両家は和睦した。だが和睦から5年後の永禄12年(1569年)4月、国虎は一条兼定の援軍を得ることで和睦を破棄して元親と再度敵対する。だがこのときの元親は本山氏を服従させて土佐中部を完全に制圧しており、すでに力関係は完全に逆転していた。7月に安芸軍は矢流川合戦(もしくは八流の戦い)で衆寡敵せず大敗。支城の穴内城や新荘城なども長宗我部軍によって落とされ、国虎は安芸城に籠もった。だが譜代の家臣である横山紀伊守らが元親に内応して安芸城に招き入れたため、遂に力尽きて国虎は自殺。その遺児である千寿丸(弘恒)も三好氏を頼って阿波に落ちたため、安芸氏は滅亡した。

その後、安芸氏の旧領は元親の実弟・香宗我部親泰が支配し、元親の四国征服における原動力となった。

歴代当主
室町時代の安芸氏は土佐守護を兼ねる細川京兆家の麾下にあり、代々京兆家当主より偏諱の授与を受けている。

安芸元重(大蔵)← 細川満元
安芸元実(摂津守)← 細川満元または細川持元(※元服時期不明のため確定不可)
安芸元信(伊豆守)← 細川勝元
安芸元盛(兵部少輔)← 細川勝元
安芸元親(備後守)← 細川政元
安芸元泰(山城守)← 細川政元
安芸国虎(備後守)← 細川高国

本山城

本山城(もとやまじょう)
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本山城及び周辺城趾地図

この地の豪族本山氏の居城跡で、
標高は377.5m、
町並みからの比高130mの所に詰めの
段を構える山城である。

土佐の戦国時代、本山養明(ようめい)、茂宗(しげむね)梅慶(ばいけい)、茂辰(しげとき)と隆盛をきわめ、
「土佐戦国7守護」の一人に代々数えられた。
1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、
朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
しかし長宗我部との激しい攻防戦に敗れ、
本山城に撤退、
さらに瓜生野城に退き1571年頃に降った。

山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、
元の形をそこねているが、
詰めの段南尾根の堀切と、
その西側斜面にのびる堅堀は原形をとどめている。
また堀切から37mほど登ったところに
小規模な堀切も確認できる。
タグ:本山城 土佐

本山 茂宗

本山 茂宗(もとやま しげむね)
本山清茂(もとやまきよしげ)
本山梅慶(もとやまばいけい)
とも言う

Screenshot_20200107-145738~2.png
本山茂宗の墓

戦国時代の大名。
土佐七雄と称された本山氏当主。
生誕 永正5年(1508年)
没  弘治元年2月23日
   (1555年2月24日)
別名 本山清茂(もとやまきよしげ)
   本山梅慶(もとやまばいけい)
父  本山養明(もとやまやすあき)
兄弟 本山茂定
子  本山茂辰

生涯
永正5年(1508年)、土佐国本山郷の豪族・本山養明の子として誕生。

武勇に優れた人物で、『土佐物語』では「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」といわれる傑物だった。

本山氏は土佐七雄の中では最も勢力が大きく、茂宗は山深い土佐北部から出て、経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大。本城の本山城を子の茂辰に譲り、朝倉城に本拠を移して経営をたくましくした。天文9年(1540年)頃、契機を見て荒倉山を超えて吾川郡弘崎に兵を進め、その地の豪族・土佐吉良氏を滅亡に追い込む。さらに、土佐国の有力大名であった土佐一条氏の軍と戦うなど、本山氏の最盛期を築き上げた。長宗我部氏に対しては快く思っておらず、室町幕府に媚びていた長宗我部氏を「虎の威を借る野狐」と称した。

弘治元年(1555年)、死去。茂宗の死後、本山氏は長宗我部氏の反攻を受けるようになる。
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