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2019年12月30日

土佐・朝倉城

朝倉城(あさくらじょう)
重松城 

高知県高知市朝倉にあった日本の城。
高知県指定史跡。

別名
重松城
城郭構造
山城
築城主
本山茂宗(もとやまむねしげ)
別名 本山梅慶(もとやまばいけい)

築城年
天文元年(1532年)頃?
主な城主
本山梅慶(もとやまばいけい)
本山茂辰(もとやましげとき)
廃城年
永禄6年(1563年)
遺構
曲輪、土塁
指定文化財
県指定史跡
位置
北緯33度32分57.9秒東経133度28分48.2秒

概要
高知市西部、高知大学西側の標高約100メートルの丘陵上に位置し、頂上のおよそ2000平方メートルの平坦地を本曲輪とし、周囲にも出丸を築いていた。

本山城主・本山茂宗は、大永(1521〜1527)年間に土佐中央部に進出した。朝倉城築城は天文元年(1532年)頃とも言われている。その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐国の覇権をめぐって争い続けた。

永禄5年(1562年)には長宗我部元親が3,000人の兵を率いて当城を攻め、本山茂辰はこれを撃退した。しかし翌永禄6年(1563年)に本山城に退去した際に当城は焼かれ、廃城となった。


2019年12月29日

壬生義雄

壬生 義雄(みぶ よしたけ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
下野宇都宮氏、後北条氏の家臣。
壬生氏5代(最後の)当主。

時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
天文21年(1552年)
死没
天正18年7月8日(1590年8月7日)
改名
氏勝(幼名)→義雄
戒名
寒光院殿雄山文英
墓所
栃木県鹿沼市西鹿沼町の雄山寺
主君
下野宇都宮氏 → 佐竹義重 → 後北条氏
氏族
壬生氏
父母
父:壬生綱雄
兄弟
義雄、鶴子(皆川広照室)

正室:自性院殿源室宗本

伊勢亀(一色右兵衛尉室)

略歴
天文21年(1552年)、壬生綱雄の子として誕生。幼名は氏勝。

父・綱雄は後北条氏と手を結び宇都宮氏からの独立を画策していたが、綱雄の叔父・周長は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)、綱雄は暗殺され、周長が壬生氏本拠の鹿沼城主となる。同年、周長は続いて義雄の籠る壬生城を攻めたが、義雄が勝利し周長は殺害される。

一時期は佐竹義重の影響力の拡大に伴ってその傘下に入って後北条氏と戦っているが、天正13年(1585年)12月には結城晴朝の説得を拒否して後北条氏方に離反、勢いづいた北条軍が宇都宮・多気山両城を攻撃した事から、翌年には佐竹氏・宇都宮氏の攻撃を受けている[1]。

天正15年(1587年)10月9日に、南会津の奥州長沼氏へ日光近辺の緊迫した政治状況を書いた書状を送っている。敵対している宇都宮氏が交通の要衝である倉ヶ崎に城を構えたため、軍事的な脅威を感じ、後北条氏に報告し、後北条氏による軍勢の派遣を約束した[2][3]。

義雄も父・綱雄同様、後北条氏と手を結んで宇都宮氏から独立して抗争する。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏に味方して小田原城に立て籠もったが、小田原落城の直後に病死した[4]といわれる。

義雄には娘しかおらず、男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は絶家した。娘の伊勢亀は義雄の死後、壬生家臣・一色右兵衛尉の室となった。

壬生周長

壬生 周長/徳雪斎(みぶ かねたけ/とくせっさい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。下野宇都宮氏の家臣。周良とも。

時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
不明
死没
天正4年(1576年)
別名
周良、徳雪斎、徳節斎、徳雪斎周長、徳節斎周長
主君
宇都宮尚綱→広綱
氏族
壬生氏
父母
父:壬生綱重
兄弟
綱房、周長、大門資長


略歴

壬生綱重の次男として誕生。

兄・綱房に協力し、壬生氏の勢力拡大に尽力する。主家・宇都宮氏の軍師しても活躍しており、大永元年(1521年)、川井合戦で岩城氏に那須氏と和睦をするよう進言し、両氏を和睦させる事に貢献した[2]。天文18年(1549年)、主君・宇都宮尚綱が那須高資との合戦(喜連川五月女坂の戦い)で戦死すると、綱房と共に宇都宮城を占拠した。しかし、天文24年(1555年)に綱房が急死[3]し、弘治3年(1557年)には宇都宮勢との戦いに敗れ、宇都宮城を奪還された。

周長は以後一貫して宇都宮氏への従属の姿勢であったが、綱房の跡を継いだ甥・綱雄は宇都宮氏からの独立を画策し、一族内で対立。また、周長が宇都宮広綱の意向を代行して佐竹氏や小山氏と外交交渉を行って後北条氏と対抗したり、鹿沼を拠点として綱雄に代わって日光山支配に乗り出したりした事で、親後北条氏派の綱雄との対立を深めていく事になる。天正4年(1576年)、周長は芳賀高定と謀って綱雄を鹿沼城の天満宮で暗殺した。しかし、同年に綱雄の子・壬生義雄との合戦に敗れ、周長は殺害された。

壬生綱房

壬生 綱房(みぶ つなふさ)
室町時代後期から戦国時代にかけての武将・戦国大名。
下野宇都宮氏の家臣。
壬生氏3代当主。
権謀術数を駆使して芳賀高経等の重臣を失脚させ、宇都宮家中で絶大な権力を有した。晩年には下克上を果たし宇都宮氏から独立する。

時代
室町時代後期 - 戦国時代
生誕
文明11年(1479年)
死没
天文24年3月17日(1555年4月8日)
戒名
龍柱院殿雲山良瑞
官位
下総守、中務少輔
主君
宇都宮成綱→忠綱→興綱→尚綱
氏族
壬生氏
父母
父:壬生綱重
母:芳賀高益娘・盛昌院殿般空妙栄
兄弟
綱房、周長、大門資長

正室:法雲院殿大蓮妙鏡
側室:横手一伯娘

綱雄、座禅院昌膳

生涯
文明11年(1479年)、下野宇都宮氏の家老・壬生綱重の嫡男として誕生[1]。主君・宇都宮成綱から偏諱を受けている。

父・綱重が鹿沼城を任せられると、綱房は壬生城主となった。永正6年(1509年)に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。永正9年(1512年)、宇都宮錯乱の際は父に従い成綱方だったと思われる。永正17年(1520年)には、浄宝寺縄吊し合戦で那須氏の居城・山田城を謀略で落とす等の功績を上げている。ところが、大永3年(1523年)に皆川氏との間で起こった河原田合戦では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対し、宇都宮軍の退路を遮断したという[2]。同年、主君・宇都宮忠綱が猿山合戦にて大敗すると、芳賀高経・高孝ら反忠綱派によって擁立された成綱の三男・芳賀興綱(後の宇都宮興綱)が宇都宮城を乗っ取り家督を簒奪した際には(大永の内訌)、綱房は居城にて忠綱を保護するが、その後忠綱は急死。忠綱を見限った綱房による暗殺ともいう。

この頃から野心を剥き出しにしており、忠綱死後、綱房は日光山を掌握しようと、二男・座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。日光山岳の宿の改修や鹿沼の今宮権現の造営等日光山の統治者しての活動に尽力した。

反忠綱派によって擁立された主君・興綱は当時10歳と若年であり、芳賀高経は興綱を傀儡として扱い、宇都宮錯乱で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて権力を増大させ、興綱の代に宿老の地位を固めた。興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は高経と共に対立。一度は宇都宮家臣の赤埴氏・戸祭氏らの執成しによって和解したが、その後再び対立した。天文元年(1532年)に芳賀高経・高孝と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し強制的に隠居させ、今度は成綱の二男・俊綱(尚綱)を擁立する。さらに天文5年(1536年)には高経と共に興綱を自殺に追い込んだ。また、綱房は天文元年(1532年)に鹿沼城の大改築を行い、城を山城から平山城とした。

天文期の頃になると綱房の権力の増大化によって壬生氏の地位は芳賀氏、益子氏に次ぐものになっていた。壬生領に隣接している小山氏の当主・小山高朝が白河結城氏の結城義綱に心苦しいと書状を送った程であったという。しかし、危機感を抱いた芳賀高経と不和となり、綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主・俊綱に接近し、高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が宇都宮氏と敵対している小山氏と関係を持ち始めた事を契機に天文10年(1541年)、古河公方足利晴氏・小田政治・佐竹義篤らと共に高経を滅ぼした。また、天文11年(1542年)に二男・座禅院昌膳が壬生氏の力が日光山に及びすぎる事に不満を抱き、久野村に隠居。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男・綱雄に攻めさせ、これを滅ぼしたという。高経を滅ぼした事で綱房を抑えられる者はいなくなり、壬生氏は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。

天文18年(1549年)、喜連川五月女坂の戦いで主君・宇都宮尚綱が戦死すると混乱に乗じて宇都宮城を占拠した。綱房は那須氏と和議し芳賀高経の子・高照を宇都宮城に招いて共同政治体制を敷いた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。綱房は壬生城に嫡男・綱雄を置き、今まで居城だった鹿沼城に弟・徳雪斎を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子・伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)を保護している芳賀高定のみとなった。天文20年(1551年)、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男・綱雄を総大将に3000もの兵で出陣させ大勝利する。この戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけた。綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する多功氏、今泉氏、芳賀氏を牽制した。塩谷氏はどちらにもつかず中立な立場をとった。

天文24年(1555年)、急死。芳賀高定による謀殺ともいう。

壬生氏

壬生氏(みぶし)
日本の氏族のひとつ。本姓は小槻宿禰。
戦国時代、下野国壬生・鹿沼を中心に勢力を張った武家。

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家紋
みつともえ
三つ巴

本姓
小槻宿禰?
毛野朝臣?
藤原北家宇都宮氏族横田氏支流?
家祖
壬生胤業または壬生朝業
種別
武家
出身地
山城国?
主な根拠地
下野国下都賀郡壬生・鹿沼
著名な人物
壬生綱房
壬生徳雪斎
壬生義雄

法厳城

土佐国・法厳城(ほうごんじょう)
高知県高岡郡越知町片岡岡本1956
(現在)岡本神社

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片岡氏は法巌城を本拠として、最盛期には吾川・高岡両郡を支配した。

『片岡系譜』『片岡盛衰記』などによれば、上野国片岡郷を名字の地とし、室町時代に直綱が土佐へ下向したと伝えられるが、実際のところは不詳。

赤松義則

赤松 義則(あかまつ よしのり)
室町時代前期の守護大名。
赤松則祐の嫡男で、赤松満祐の父。

時代
南北朝時代 - 室町時代前期
生誕
正平13年/延文3年(1358年)
死没
応永34年9月21日(1427年10月11日)
別名
赤松三尺入道
戒名
竜徳寺延齢性松、雲光院殿延齢大居士
官位
従四位下、上総介[1]、左近将監[1]、大膳大夫
左京大夫[1]、兵部少輔[1]
幕府
室町幕府 侍所頭人[1]、山城・播磨・備前・摂津西成郡川辺郡有馬郡・美作守護[1]
主君
足利義満 → 義持
氏族
赤松氏
父母
父:赤松則祐[1]、母:佐々木道誉の娘
兄弟
義則、時則[2]、満則[2]、持則、義房、有馬義祐[2]、祐秀[2]、妹(細川頼元室)

満祐[1]、祐尚(祐之[2])、則友[2]、義雅[2]、則繁、竜門寺直操ほか

生涯
赤松則祐の子として生まれる。家督相続前から将軍・足利義満に仕えて活動しており、応安4年(1371年)8月27日に石清水八幡宮の造営奉行に任命された[3]。

応安4年11月29日(1372年1月13日)、父・則祐の死により家督を継ぐ。義満より偏諱を受けて義則と名乗る[注釈 1]。永和5年(1379年)2月29日、義満の命令を受けて土岐頼康を攻撃し、その功績で同年に侍所別当に任命された(『東寺文書』[4])。康暦2年(1380年)には弥勒寺本堂[注釈 2]を再建している。

元中3年/至徳3年(1386年)9月、叔父の氏範が南朝方として摂津にて挙兵すると、義則は幕命によりその討伐に従っている。氏範が自害した後、義則はその遺骸を引き取って清水寺に葬った。

元中5年/嘉慶2年(1388年)、侍所の所司に任じられ四職家のひとつになり幕政に参与する。[5]

明徳2年(1391年)の明徳の乱では弟の満則と共に幕府軍の一翼を担い、山名氏清討伐で大いに武功を挙げた。これにより翌年、将軍・足利義満から山名義理領であった美作国を与えられた。また戦死した満則の功績に対して摂津中島郡も与えられている(『明徳記』[6])。義則の代に赤松氏は播磨国・備前国、そして美作を領する有力守護大名に発展した。

応永2年(1395年)6月に義満が出家したのに伴い、義則も出家したという。また拡大した領国の支配体制の整備に努めた。応永6年(1399年)11月の応永の乱では京極高詮らと共に堺の大内義弘を攻めて武功を挙げた。応永9年(1402年)2月17日に侍所別当を辞任しているが、6年後の12月に再任した。義満の没後は後継者の義持に仕えて幕府宿老として重きを成し、義持も応永20年(1413年)2月16日や応永22年(1415年)3月26日など、確認できるだけで4回も赤松屋敷に渡御している。

応永34年(1427年)9月21日、70歳で死去[注釈 3]。跡を嫡男の満祐が継いだ。

ちなみに義則は身体が極端に小さかったため、出家後は赤松三尺入道と称された。後継の満祐も三尺入道と呼ばれている。


赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ)
室町時代中期の武将、守護大名である。
室町幕府侍所頭人、
播磨・備前・美作守護。
赤松義則の嫡男。
兄弟に
義雅、祐尚(祐之)、則繁など。
従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。

時代
室町時代前期 − 中期
生誕
弘和元年/永徳元年(1381年)
死没
嘉吉元年9月10日(1441年9月25日)
別名
三尺入道。相善
諡号
慈照院殿
戒名
性具
官位
兵部少輔、左京大夫、大膳大夫
幕府
室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護
主君
足利義満→義持→義量→義教
氏族
赤松氏
父母
父:赤松義則、母:不詳
兄弟
満祐、祐尚、則友、義雅、則繁、竜門寺直操

教康、若松丸、乙松丸

家督相続
赤松義則の子として生まれ、元服時に室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱の授与を受けて満祐と名乗る。父の代理として早くから政治の表舞台にあり、第4代将軍・足利義持(義満の嫡男)の代になって、応永18年(1411年)から応永20年(1413年)に侍所頭人を務めた。また応永21年(1414年)からは父に次いで左京大夫に叙任され、守護職を代行している(『美作木山寺文書』)[2]。

応永34年(1427年)に亡くなった父の跡を継いだが、前将軍・義持(当時の将軍は第5代義量)が満祐の所領である播磨を没収して寵愛する側近の赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとすると、満祐は京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めた。これに激怒した義持は残る備前・美作両国も奪ったうえで追討令を出すが、討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど混乱が続く。翌年に突如持貞と義持の側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

義教時代
応永35年(1428年)1月に義持が死去、その弟の足利義教が第6代将軍となると、反乱を起こした北畠満雅討伐軍に加わり、満雅の子・教具と幕府を和睦させて北畠家の取次を務めた。同年から永享4年(1432年)まで侍所頭人に再任、翌年に播磨の国一揆が起こると播磨に下向、反乱を鎮圧した。永享4年の大和永享の乱では実弟の義雅を大将にした軍勢を派遣している。

また正長元年(1428年)には赤松家の本拠の播磨で播磨の土一揆が起こった。これは前年の満祐の家督相続時、幕府との合戦を決意して軍備を整えていたとき、大量の兵糧を徴発したために起こったとされるが、京都で正長の土一揆が起こって侍所別当として鎮圧に当たっていた満祐は[注釈 1]、急遽播磨に下向して鎮圧に努めている。

義教とは当初良好な関係であり、宿老の1人として義教の諮問に応じたり、義教の邸宅訪問を受けたり、永享10年(1438年)11月に3度目の侍所頭人を任されるなど幕府内の長老格として権勢を振るうが、やがて義教は有力大名を誅殺しだすと、永享10年3月には家臣3名が義教によって殺害され(『看聞御記』3月15日条)[4]、永享12年(1440年)3月17日に弟の義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村(持貞の甥)に与えられた[注釈 2]。満祐も領地を没収されて貞村に与えられると言う風聞が起こるなど[注釈 3]、次第に対立の色を深めていった。

将軍暗殺
義教は満祐に限らず有力守護大名家に介入し、管領の斯波氏や畠山氏の他に京極氏、土岐氏、一色氏ら四職にも介入した。永享12年(1440年)5月15日には丹後・若狭・三河・山城の四か国守護兼尾張知多郡分郡守護の一色義貫を、翌16日には伊勢守護土岐持頼を相次いで暗殺し、家督と守護職を没収してその一族や他の大名に分け与えるという強硬策に出たため、満祐は不安を次第に強めていった[7]。9月22日にはついに侍所別当の職を罷免させられたため、幕府への出仕もしなくなった。このため、義教と満祐の対立が先鋭化し、不穏な噂も絶えなかったという[注釈 4]。

嘉吉元年(1441年)6月18日、加賀守護富樫教家は突如として義教の勘気を蒙り守護を解任され、加賀守護は僧になっていた弟の富樫泰高に与えられた。それからわずか6日後の6月24日、満祐は結城合戦の祝勝会と称して義教を自邸に招き、嫡子の教康と弟の則繁に命じて義教を暗殺した(嘉吉の乱)。

最期
その後は京都における赤松一族の屋敷を焼き、領地の播磨へ逃れて足利直冬の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じて対立する[8]。しかし『赤松盛衰記』では赤松家中内部でさえ義尊擁立には必ずしも賛成していなかったことを示している。同書では義尊を迎え入れた後、満祐は義尊を利用して味方を増やそうとした一方で、東坂本の定願寺で酒宴・猿楽・連歌・詩歌・管弦・芸能など遊興の限りを尽くすのを黙認したとされている。満祐はあくまで義尊を傀儡として利用したのであり、武将として陣頭に立つ事は期待していなかったとされている[9]。

幕府は強力な独裁者である義教を突然失って混乱しており、また義教の息子らはいずれも幼く有力一族も欠けていたため危機的状況にあった。しかし管領の細川持之は義教の嫡子・千也茶丸(足利義勝)を立て、対応策を必死に練った。このとき満祐が持之宛に挑戦状を出したとされるが、『赤松盛衰記』にしか記録がなく、創作とされる[10]。

幕府の持之は細川持常、山名持豊(宗全)、赤松貞村らをはじめ、西国の河野氏や吉川氏などを動員して赤松領に侵攻させた。教康・則繁らの善戦で一時は幕府軍を圧倒したが、赤松討伐の綸旨が出されて満祐は朝敵とされ[注釈 5][注釈 6]、播磨だけでなく美作・備前などにも山名軍など諸軍が攻め寄せて赤松家を裏切りあるいは敗北したため、満祐は防御力のほとんどない居城の坂本城から山城の城山城(現・兵庫県たつの市)に籠もった。しかし幕府軍に攻められ、教康や則繁らを逃がしたあとの9月10日に一族69名と切腹自殺する。享年61もしくは69。介錯は安積行秀が務めた。首級は山名教之の家臣・出石景則に奪われ、義教の遺児に見せられたのち、9月21日に四条河原で晒された[注釈 6]。

死後、従弟の満政、甥の則尚が赤松氏再興を狙い挙兵したが、宗全に鎮圧された。しかし長禄2年(1458年)、又甥に当たる赤松政則が後南朝から神璽を奪回した功績で再興を果たした(長禄の変)。

直系子孫に関する伝承
教康は満祐の命を受けて赤松氏存続の為に17人の供回りと城山城の西南から脱出[13]し、室津から船で妻の従兄にあたる伊勢の多気城にいる北畠教具[14]のもとへと逃亡した。この際、教康は叔父に則繁や満祐が擁立した足利義尊らと共に逃走したとされる(『建内記』嘉吉元年九月二十五日条)。教具は3日ほど城内に滞在させたが、やがて厄介者として馬場城に身柄を移した[15]。そして教具は幕府からの討伐を受けることを恐れ、心証を良くする為に教康を匿うことを拒絶。絶望した教康は9月28日に伊勢で自殺して果てた[16]。その首級は10月1日に京都に送られ、幕府によって赤松屋敷に晒された。以上のように教康は19歳で没した。

但し、薩摩の島津家の史料である『本藩人物誌』によると、教康は満祐の死後に日向志布志(現鹿児島県)へ忍び下り、志布志の松山は中島に蟄居、教康の曾孫に赤松肥前守義季がおり、島津義久に仕えたと記されている。これが事実であれば、義季は満祐の玄孫にあたり、満祐・教康父子の直系子孫は少なくとも16世紀半ばまで存続したことになる。

人物・逸話
満祐はその背丈の低さから父と共に三尺入道などと呼ばれていたことから低身長症(軟骨無形成症・身長が120cm程)だった可能性もある。またそのコンプレックスゆえに、足利義持・足利義教と2代に渡って将軍に反抗したのではないかとの説もある[注釈 7]。

江戸時代に身分制度が固まった封建制の下で、満祐は「逆臣伝」(『野史』)で扱われている[17]。ただし満祐こそが「真の下克上時代」を切り開いた人物という評価もある[18]。

満祐は性格が傲岸不遜、横柄で気性が激しかったという。これには多くの逸話もある。

満祐は弟の中でも乱暴者で知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。則繁が細川邸で暴挙に及び将軍の義持から切腹命令が出ても弟をかばったとされており、このため義持・義教の2代にわたって満祐は信頼されず、むしろ温和で有能な庶流家を厚遇したという[19]。
東寺の傍を通ったとき、壁越しに見た一本の松が特に枝振りが美しかったので使いを送ってこの松を所望した。勿論、満祐はそのための代金も出しているが、社寺で成長した松の木を私邸に移すなど当時の常識では考えられぬことで、東寺では衆議を開いて協議したが赤松家が幕府の重職にあることを考慮してやむなく松を譲ったという(『東寺文書』)[20]。
強力な独裁者・足利義教を突如失っただけでなく、義教の遺児がいずれも幼少だったことから大混乱した幕府では当面の間、赤松討伐どころでは無くなった。かたや満祐は幕府からの討伐軍が派遣されるまで2ヶ月もの間、播磨など領有3カ国を保持し時間的余裕があったにも関わらず、上洛して倒幕しようとすらしなかった。これは義教の没後には、生前に家督問題で介入されていた諸大名家で再び内紛が起こり、こちらが擁立した足利直冬の孫の御教書に応じて幕府に謀反する大名が多いと満祐が過信していたためという。しかも、その目算を確実にするような諸大名家への積極的な工作すら行わず、書写山の東坂本にあった定願寺で日夜酒宴や猿楽芸能を尽くして遊び呆けていたという(『赤松盛衰記』)[21]。おかげで幕府軍に追討の準備を整える機会を与えただけでなく、惣領家と庶流家で分裂し赤松の一門すら結束させられなかった。そのため幕府軍と衝突して半月で勝負がついたのも、悪評高い将軍を暗殺したのだから自分に同情して味方してくれる者もいると満祐が安易に考えていたためという[22]

赤松時勝

赤松 時勝(あかまつ ときかつ)
室町時代中期の武将。
赤松満祐の甥に当たる。
満祐の実弟・赤松義雅の子。

時代
室町時代中期
生誕
永享5年(1433年)
死没
康正元年(1455年)
改名
千代丸、性尊
戒名
勝岳性尊
氏族
赤松氏
父母
父:赤松義雅、母:三条実量の娘?

赤松政則

生涯
父の義雅は嘉吉の乱で兄に協力して幕府軍の追討を受け、9月に城山城が落城すると寄せ手の一手を務めていた赤松一族の赤松満政に降参した。しかし、義雅は満祐の弟であるとして許されずに自害させられ、当時9歳だった時勝(千代丸)は満政の庇護を受けて室津に隠された。やがて満政の手配により、建仁寺の天隠龍沢に庇護され、その天隠により大納言の三条実量に身柄を渡され[1]、所領のあった近江浅井郡丁野村の成願寺で密かに養育された[2]。

はじめは僧侶として育てられたが、のちに還俗して時勝と名乗った。康正元年(1455年)に23歳で死去した[3]。

赤松家の家督は時勝の死の前後に生まれた息子の次郎法師丸(のちの政則)が継ぎ、彼の時代に赤松家は大名として再興する。

赤松義雅の子。母は『赤松盛衰記』などの史書では三条実量の女とされるが、赤松一族の者とする説もあり、不詳である。幼名は千代丸あるいは千松丸。
嘉吉元年(1441)に伯父・赤松満祐が将軍・足利義教を殺害して幕府軍の追討を受けたとき(嘉吉の乱)は7歳(一説には9歳)の少年であり、敗死を覚悟した父・義雅によって、追討軍に与した赤松一族の赤松満政に託された。
その後は母の実家・三条家の所領である近江国浅井郡丁野村の成願寺で出家して性存と号し、のちに還俗して時勝と名乗ったというのが通説であるが、母が赤松一族であるとの説に従えば、この伝承には疑問も残る。
しかし播磨国出身の禅僧・天隠龍沢の援助を受けて育ち、のちに時勝と名乗ったことは事実と見られる。
康正元年(1455)に21歳(一説には23歳)で早世したが、この時勝の遺児・法師丸(のちの赤松政則)が長じて赤松氏を再興した。

赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)
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赤松政則像
(六道珍皇寺蔵)

室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。
赤松家の第9代当主
(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。

時代
室町時代後期(戦国時代)
生誕
享徳4年2月19日(1455年3月7日)
死没
明応5年4月25日(1496年6月6日)
改名
次郎法師丸(幼名)、政則
戒名
松泉院無等性雲
官位
従三位、兵部少輔、左京大夫
幕府
室町幕府侍所頭人、加賀半国守護→播磨・美作・備前守護(後に山城守護補任)
主君
足利義政→義尚→義稙→義澄
氏族
赤松氏
父母
父:赤松時勝

正室:伊勢貞親の娘?
継室:洞松院(細川勝元娘)

村秀、小めし(松)(赤松義村正室)
養子:義村、真龍

嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。

生涯
享徳4年(1455年)2月19日[註 1]、赤松家の第8代当主・赤松満祐の従孫(満佑の弟・義雅の孫。義雅の子・時勝(性存・性尊)の子)として生まれる。当時の赤松家は嘉吉元年(1441年)に室町幕府第6代将軍・足利義教を大伯父・赤松満祐が暗殺するという嘉吉の乱で、幕府軍に攻められて大名家として滅亡していたため、父の時勝と政則は京都建仁寺で養育されていた。政則が生まれる前の年(享徳3年、1454年)に同族の赤松則尚が播磨で挙兵したが、翌年に山名宗全に討たれている。

政則が生まれて7か月後の10月に父の時勝は死去した。母も早世したとされ、政則は幼少期から不幸な生活を送ったとされる。政則の養育には家臣の浦上則宗が務めて主従苦楽を共にし、これが後に大名家に再興した際の政則・則宗体制の原点となった。
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