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2020年01月19日

源氏

源氏(みなもとうじ、げんじ)
日本の氏族のひとつ。姓は朝臣。

Screenshot_20200118-203333~2.png
家紋 笹竜胆ささりんどう
  (代表的な家紋)
各、源氏によって異なる。

氏姓
源朝臣
氏祖
天皇の皇子・諸王
宮家の諸王
種別
皇別
著名な人物
村上源氏:
源通親
北畠親房
清和源氏:
源頼朝
足利尊氏
徳川家康(自称)
その他は源氏の人物一覧を参照
後裔
嵯峨源氏
村上源氏
清和源氏
花山源氏
宇多源氏
正親町源氏
など

その他の源氏については、二十一流を参照

日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏のひとつで、多数の流派がある。源氏を統べる源氏長者は室町時代まで村上天皇の子孫である村上源氏が独占し、建久七年の政変で摂関家を越える権力を手にした源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房などがいる。また、清和天皇の子孫である清和源氏は武家の棟梁を多く輩出し、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などがいる。戦国時代の武将松平元康も後半生には清和源氏を自称して徳川家康と名乗り、江戸幕府を開いた。

概要
姓の代表的なものの一つとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。

嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)があるとされている[注釈 1]。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者を有した。また、平安以降臣籍降下が頻発すると源・平の二姓ばかりになるが、最近の研究で「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった事が判明している。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は多くなく、推定人口は4,000人程である。

代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われている。

起源
嵯峨天皇が生まれた子らに源姓を与えたことに始まる。皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめて与えられた。

元々は中国の五胡十六国時代、南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来する。

他にも、「源」は「水元」であるという説もある。例えば、『和訓栞』(谷川士清)では「みなもと、源をよめり。水元の義なり」とある。また、『神代巻藻塩草』(玉木正英)では「源ノ訓ハ水元也」とある。

嵯峨天皇に皇子皇女が増え、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道であった。親王ながら皇位を望めない場合や、諸王にあって親王宣下を望めない皇族が自ら降下を求める場合と、朝廷から一方的に降下させる場合とがあり皇別氏族を取り巻く状況は朝廷の財政事情と常に連動する要素が強かった。

嵯峨天皇の後の天皇も度々皇族を源氏として臣籍に下したことから、嵯峨天皇を祖とする源氏を嵯峨源氏と称する様になり、以後源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称とした(仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏など)。

臣籍に降下すると言っても天皇の実子である一世源氏は特殊な待遇を受ける存在であった。嵯峨天皇の子である源定・源融、仁明天皇の子である源冷は父天皇の意向で親王の例に準じて内裏において元服を行っており、親王に準じた待遇を受けた。その後、陽成天皇の退位後の後継選定で藤原基経が源融を退けて光孝天皇を即位させ、光孝天皇が崩御するとその基経が臣籍に降下した源定省を復籍させて宇多天皇として即位させるなど、同じ天皇の子でも親王と一世源氏の区別の明確化を迫られる事態が発生し、宇多天皇以降の儀式書では親王の元服と一世源氏の元服では異なる作法が記されるようになる。しかし、その後も規模を小さくしながらも内裏で元服を行い、内蔵寮から饗宴や引出物が用意された醍醐天皇の子である源高明・源兼明の元服など一世源氏の特殊性が完全に排除されることはなかった(内蔵寮は天皇の私的な支出を扱う官司であり、一世源氏の元服を公的行事から天皇主催の私的行事に切り替えることで特殊性を維持したとみられる)。『源氏物語』において、桐壺帝が一世源氏である光源氏の元服を自ら主導して、引出物も自ら準備している(費用も桐壺帝の負担と考えられる)のも、一世源氏の特殊性が描かれた場面と言える[2]。

また、朝廷が皇族を臣籍降下させ源氏とした背景としては上級貴族として皇室の藩塀とすることという理由もあった。しかし実際には3代目以降も上級貴族であり続けた例はほとんどなく、大半は受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、中央で中下級貴族として細々と生き延びた。他に皇族に対して賜った姓としては、在原朝臣・平朝臣などがある。

武家源氏と公家源氏
清和源氏は、二十一流あるといわれる源氏における一家系であるが、武家源氏として歴史上に名を馳せたことにより、清和源氏をして源氏と称することが多い。

この一族は清和天皇の皇子を祖とする。武家源氏として名を馳せた清和源氏においては畿内に始まり各地に土着しており、源満仲の子から摂津源氏、大和源氏、河内源氏とに分かれた。河内国を本拠地とした河内源氏の源義家(八幡太郎義家)はその主流で、その子孫は鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表される武門として栄えた。さらに河内源氏からは石川源氏、甲斐源氏、常陸源氏、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏、美濃源氏その他が分派しており、いずれも清和源氏一門であり、いわゆる「武家源氏」である。

清和源氏以外に武家となった源氏としては、嵯峨源氏の源融を祖とする「融流嵯峨源氏」がある。嵯峨源氏の武家として系譜を伝えた代表は、摂津国を基盤とした渡辺氏とその分流の松浦氏である。また、宇多源氏の中で武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐佐木源氏)と称し、佐々木氏として有力武士団に成長していく。

中央貴族として栄えた源氏として村上天皇の皇子を祖とする村上源氏がある。同じ源氏でも公卿として繁栄する系統や、武士や神官となる系統に別れるのは、政治情勢や臣籍降下する者、母方の勢力や身分がその後の官途に大きく左右する為である。特に天皇の皇子が降下することを、「一世の源氏」といい、任官の上で大いに優遇された。皇孫に至って臣籍降下することを「二世の源氏」といい、一世の源氏よりも家系的には不利を蒙った。

平安後期以降、皇位継承とは関わりのない皇子皇女たちは出家する慣例が生まれたため、賜姓源氏はほとんど途絶えていた。江戸時代に入って一家が生まれた(広幡家)が、それを最後に源氏賜与は途絶えた。

源氏の一覧
源氏は全部で21の流派(「二十一流」参照)があるとされるが、そのうち18流を以下に示す。

嵯峨源氏
52代嵯峨天皇の子孫。詳細は「嵯峨源氏」を参照。

嵯峨天皇は多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させた。この内、源信・源常・源融は左大臣となり、平安時代初期に朝廷の一大勢力をなした。また、源融の系統は地方に土着として武家となった。

氏族:渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など

嵯峨源氏 系図
嵯峨天皇諸皇子・皇女系譜
女子は数を限って記載。

日本の第52代天皇
嵯峨天皇

日本の第54代天皇
仁明天皇 嵯峨天皇の第二皇子

秀良親王

業良親王

忠良親王

基良親王

淳王

源信 源信流へ

源弘 源弘流へ

源常 源常流へ

源定ー源至ー源挙ー源順

源明 源明流へ

源生ー源加ー源浮
   源見

2020年01月18日

清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)
第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。
Screenshot_20200118-203333~2.png
家紋 笹竜胆(代表的な家紋)
   各、源氏によって異なる。

本姓
源朝臣
家祖
第56代清和天皇の皇子・諸王
種別
皇別
出身地
摂津国
著名な人物
清和源氏の人物一覧参照
支流、分家
摂津源氏
大和源氏
河内源氏
その他の支流については、主な清和源氏を参照

概要
源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族である。

清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称した。中でも第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子孫が著しく繁栄した。

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立した。

その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が出た。また一部は公卿となり、堂上家として竹内家が出た。

出自
Screenshot_20200118-205124~2.png
初期清和源氏の略系図(源満仲の子まで)

一般に武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡る。

陽成源氏説
経基王について、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がある。この出自論争は実証ができず決着はついていない。

この陽成源氏説は明治の歴史学者星野恒が『史学雑誌』に発表した論文「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」において提唱した説で、「清和源氏の祖は実は清和天皇ではなく陽成天皇であるが、暴君であったとされる陽成帝の名を冠せず清和源氏を名乗った」というものである。石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信が誉田山陵(応神天皇陵)に納めたと称する永承元年告文に「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇」と明記してあることが根拠である。 発表当時は波紋を投げかけたものとなったが、通説の清和源氏説を覆したり長く論争になったりすることはなかった。

その後、竹内理三が永承元年告文を肯定する[1]と、庄司浩、杉橋隆男、奥富敬之、貫達人、元木泰雄、野口実など支持者が増え有力な仮説となった。 一方で宝賀寿男[2][3]、赤坂恒明[4]など旧来の系譜が妥当とする立場もあり、決着はついていない。

賛成の立場でも星野説そのままではなく、竹内は陽成天皇の暴君像を武士の家としてふさわしいものと捉えている。

また経基・貞純親王・元平親王などの年代で論じるもの[3][5]もある。ただし赤坂によって、史料性の上で問題ないといえない系図資料が使用されていると指摘されている。 赤坂は、当時の皇族の叙位例・氏爵などから清和源氏説が妥当とする。また『権記』に引用されている天暦7年(953年)の王氏爵不正事件に現れる、清和天皇の子孫でありながら陽成天皇子孫を詐称したとして罰せられた源経忠を経基あるいはその兄弟と推定し、頼信が願文で陽成天皇の子孫であることは真実であると主張して名誉回復を図ったと解釈する。

写本であり告文の裏面に校正したと但書きがあることから、宝賀寿男はその信憑性を疑っている。一方、安田元久は星野説の考証を肯定する、ただし一層厳密な史料批判が必要とする。義江彰夫も今考証する余裕はないが源頼信の作に間違いないとする[6]。赤坂は先行研究から後世の偽作でないことは確実だが源頼信による作為があり実際と異なるとしている。

なお経基が清和源氏でも陽成源氏でも、武士の家となった系統の性質に違いはない[4]。また「清和源氏」は広く名が知られさらに名称で本質は変わらないため、「陽成源氏」へ名称を変える必要はないとする意見[7]もある。

系譜
清和源氏説:清和天皇−貞純親王−源経基−源満仲
陽成源氏説:清和天皇−陽成天皇−元平親王−源経基−源満仲  

歴史
武士団の形成
経基の名跡を継いだ源満仲は藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任、摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成した。酒呑童子退治などで有名な満仲の長男・源頼光も摂津国に拠点を置いたことから、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成した。摂津源氏の中でも本拠である多田を継承した嫡流源頼綱(頼光の孫)の系統を多田源氏という。満仲の次男・源頼親の系統は大和国宇野(現奈良県)を本拠地としたことから大和源氏と呼ばれる武士団を、三男・源頼信の系統は河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏と呼ばれる武士団を形成した。

源氏一族の争い
源満仲の子の中でも特に三男の源頼信は、長元元年(1028年)房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常の乱(長元の乱)を平定するなどの武功を示す。また頼信の子・頼義は康平5年(1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚の長・安倍氏を討ち(前九年の役)、頼義の子・八幡太郎義家は、同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、寛治元年(1087年)には出羽国の俘囚長・清原氏の内紛を収めて(後三年の役)声望を高め、頼信流の河内源氏は東国に足掛かりを持つようになった。河内源氏はこのように武名を上げ、それまでの清和源氏庶流であった地位から嫡流の地位を事実上占めるに至った。このような興隆は時の権力者白河法皇の警戒を招き、河内源氏は抑圧された[8](ただし、研究の進展で見直しがされている)。

河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東を拠点としたのは、兄の源頼光、源頼親が藤原道長に側近として仕えたのに対し、頼信は上野介や常陸介など遠方で収入の少ない東国受領となっていたからである[9]。しかし、上記のように武功を重ね、義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎)兄弟の頃には清和源氏最大の勢力となっていた(ただし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央で昇進を重ねた。)。この頃、源氏庶流は国の下級官人を辞し、地方の荘官などとなることにより勢力を築いていった。

しかし、義家の晩年に次男の義親が朝廷に反抗したため義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始める(義家の長男は早世していた)。また、弟の新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏、下野源氏の祖)が嘉承元年(1106年)に常陸合戦を引き起こし、両者が勅勘を受けてしまう。さらに天仁2年(1109年)、義家の死後に家督を継承し栄名を誇った、義家の三男源義忠が暗殺され、当初事件の主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義と源光国(美濃源氏)の討伐を受けて壊滅、また事件後真犯人が新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部の分裂は明白になり、権勢はしばらく失墜した。この背景には、河内源氏が拠り所にしていた摂関家の摂関政治から、白河法皇の院政への移行があった。

摂関家と院の対立
源義忠の後を継いだ源為義は白河法皇に近侍したが、自身、郎党、八男・鎮西八郎為朝らの乱行で信用を失ったため、摂関家へ接近した。一方で長男の源義朝は南関東に下向して勢力を伸ばし、白河法皇に仕えて父とは別行動をとった。この際、当時の武蔵守・藤原信頼に接近したとされる。義朝は、義忠の弟である上野国と下野国に所領を有する源義国とも結ぶことに成功し関東で力をつけ、さらに院の影響下で京都へ復帰した。一方、父・為義は義朝の弟・源義賢を義朝の支配の及ばない北関東へ派遣した。秩父氏の争いもかかわって義賢は義朝の長男・義平と対立したが、久寿2年(1155年)の大蔵合戦で義賢が討死、義平側が勝利した。こうした河内源氏の内紛の一方で、白河法皇や鳥羽法皇の寵愛を受けた伊勢平氏の平正盛・忠盛父子、美濃源氏の源光保・光宗父子らが復興し、武門の中で河内源氏の勢力は相対的に低下していった。

源為義と義朝の対立は保元元年(1156年)の保元の乱において決着する。父や弟を処刑した義朝は、同じく後白河法皇側についた下野源氏の足利義康が急逝したこともあり、一族を圧倒して河内源氏の総領の座についた。しかし京都では、信西一門・二条天皇親政派・後白河院政派というグループの鼎立(ていりつ)が起こり、平治元年(1160年)、藤原信頼と結んでいた義朝は後白河法皇を幽閉し平治の乱を起こす。一時天下を我が物にした義朝だったが、平清盛らが秘密裏に法皇らを救出したことで形勢逆転、敗退して京を落ちて東国へ向かう。しかし、道中で腹心の鎌田政清の舅(しゅうと)にあたる尾張国の長田忠致の手にかかって殺害され、源光保らも後白河法皇により誅殺(ちゅうさつ)された。

源平合戦
治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する(以仁王の挙兵)。この乱は失敗するが熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生する。

当初は平家が源氏を圧倒しており、頼朝の弟の希義が敗死している。しかし次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われた。その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となったが頼朝軍が圧倒していき、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利した。

鎌倉時代
平家の追討に成功した頼朝は、乱の中で他の源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、多田行綱(多田源氏)、弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めた。武家政権の台頭を嫌いその勢威を抑制してきた後白河法皇が崩御すると、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、今日でいう鎌倉幕府が成立した。これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められた。

ただし源頼朝の系統は、頼朝の子・源実朝が兄源頼家の子・公暁に殺害される。その公暁も捕らえられて処刑、公暁の異母弟・禅暁も加担を問われ殺され、さらに禅暁の同母兄・栄実が泉親衡の乱に擁立されるが乱が失敗し自害、そして男系男子で最後まで残っていた頼朝庶子・貞暁が天福2年(1231年)に死去して断絶、また男系女子でも頼家の娘・竹御所が1234年死産により死去したことで、完全に断絶した。

また、鎌倉幕府において源氏一門は、血統や功績などにより源姓を称することが許される「御門葉」と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別された。御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、加賀美氏(甲斐源氏)などの新羅三郎義光の系統、足利氏、山名氏などの源義国の系統が名を連ねたが、平賀氏、大内氏は、承久3年(1221年)の承久の乱により得宗家に敗れ没落した。

室町時代以降

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、源義国の次男・足利義康を祖とする足利氏の棟梁・足利尊氏は、源義国の長男・新田義重を祖とする新田義貞らの対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。足利義満は清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開いた。その後、尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れた。

また、足利氏庶流で「御一家」とされた吉良氏・渋川氏・石橋氏、「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏の他、山名氏(新田氏庶流)、土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した今川氏(吉良氏庶流)、奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が勢力を伸ばした。

その後、戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきた。 清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではない。ちなみに武家の棟梁である征夷大将軍には清和源氏の者しかなれないという説がある。しかし、藤原頼経といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性があった(三職推任問題)。そのため、現在ではこの説は俗説とされている。

2020年01月15日

吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。

清和源氏足利氏支族の吉良氏(長氏流)。三河吉良氏。
清和源氏足利氏支族の吉良氏(義継流)。奥州(武蔵)吉良氏。
清和源氏為義流の吉良氏。土佐吉良氏。

吉良氏(清和源氏足利流)
kirasi.png
家紋 足利二つ引


本姓
清和源氏(河内源氏)
家祖
吉良長氏(三河吉良氏)
吉良義継(奥州吉良氏)
種別
武家
士族
出身地
三河国幡豆郡吉良荘
主な根拠地
三河国
武蔵国
著名な人物
吉良貞義
吉良頼康
吉良義央
上杉綱憲
支流、分家
米沢上杉氏(武家→華族)
今川氏(武家)
蒔田氏(武家)
荒川氏(武家)など

本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ足利氏の一門である。足利義氏の庶長子・吉良長氏およびその弟・吉良義継より出る。兄・長氏の家系は三河吉良氏となり、弟・義継の家系を奥州吉良氏という。

吉良氏は足利一門において名門とされ、分家の今川氏とともに足利将軍家の連枝としての家格を有した。その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで庶民に言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には足利宗家の家督を継承することが許されていたという説が巷(ちまた)にはある。

ただ、三河でも奥州でも家格の高さに武力が伴わず、家運は低迷、大名としての存続は断たれた。しかし両系統は江戸時代に家名を繋いでいる。

三河吉良氏
鎌倉時代、足利義氏が三河国幡豆郡吉良荘(現・愛知県西尾市吉良町)の地頭職を得、これを庶長子・長氏に譲ったことに始まる[1]。吉良荘の吉良の語源は、荘園内の八ツ面山(やつおもてやま)に雲母(大和言葉で「きらら」)の鉱山を古くから有したためにつけられたものと言われている[1]。当時の吉良荘は古矢作川の東西にも広がっていたため、川の東西をそれぞれ「東条」、「西条」(城は現・西尾市)と区分して呼んでいた。長氏は西条の西尾城を本拠としており、弟の義継(城は現・西尾市吉良町駮馬〈まだらめ〉城山)が東条を本拠としたため、長氏の系統は西条吉良氏と呼ばれる。義継の系統は前期東条吉良氏と呼ばれ、後に奥州に移っている。

承久の乱以降、足利氏は三河守護だったこともあり三河国内に多くの所領を得たが、長氏は三河国に滞在してその中でも総指揮・監督権を委ねられる立場にあり、足利宗家から深い信頼を受けていたことがわかる。 長氏の子吉良満氏は霜月騒動で安達泰盛にくみし、北条氏による討伐を受けて戦死。その子吉良貞義は元弘3年(1333年)、後醍醐天皇方の勢力討滅の命を帯びて上洛途上の足利高氏が三河国に滞在した際、貞義は「天皇について鎌倉幕府打倒のために立ち上がるべきである」と強硬に進言した。これが最終的な引き鉄となって高氏は六波羅探題攻撃に踏み切り、鎌倉幕府崩壊劇の嚆矢(こうし)となった。

南北朝時代 編集
南北朝時代から室町時代には、貞義の子吉良満義は観応の擾乱で足利直義に味方し、嫡男満貞とともに各地を転戦、一時的に南朝にも帰順した後、最終的に室町幕府に降る。

室町時代
吉良氏初代・長氏の隠居所として築かれた館は「丸山御所」と称された。渋川氏・石橋氏の両家とともに「御一家」と称されて別格の扱いを受けた。 しかし、吉良氏当主は京都にあって将軍家一門としての格式を有し、評定衆の一人に代々任じられる家として幕閣で活躍した。とくに足利将軍家一門の吉良氏は式評定衆として他氏出身の出世評定衆よりも重んじられた。しかし代々同じ国の守護を継ぐことはなく、守護領国を形成することはなかった。

満義・満貞父子が本拠地の吉良荘を留守にしている間に、満義の四男吉良尊義が吉良荘の東条を押領し、東条吉良氏(後期東条吉良氏)として自立するという事件が起きる。以後、尊義の東条吉良氏と、西条に勢力を限定された満貞の西条吉良氏とは、互いに正統性を主張しあって譲らず、応仁の乱においては西条家の吉良義真が東軍、東条家の吉良義藤が西軍にそれぞれ属して戦うなど、両者の子孫は約1世紀にわたって抗争を繰り広げた。

戦国時代
戦国時代の三河吉良氏は西条吉良の吉良義信が永正5年(1508年)の足利義稙の将軍復帰に功績があったとして三河守護に任じられたとする説[2]があり、また、安祥松平家の松平信忠に偏諱を授けたとする説もある。

だが、全体としては勢力が振るわなかった上に、西条吉良氏と東条吉良氏に分裂した内部抗争が収束しなかったため、家運を一段と低迷させていた。その間に、庶流である駿河守護今川氏からの圧迫を受けたのである。西条吉良の吉良義尭の頃であり、遠江国の拠点である引間荘を奪われている。また、三河でも吉良氏から偏諱を受ける立場であったとされる安祥松平家が台頭する。なお、松平清康は東条松平の吉良持清の偏諱を、松平広忠は持清の息子である吉良持広の偏諱を受けたとする説がある。

ようやく同族抗争の愚を悟った東条・西条両家は、東条吉良の吉良持広が西条吉良の吉良義安を養嗣子にするという形で和議を成立させ、長年の抗争に終止符を打った。享禄・天文初年間のことである。義安は今川氏への対抗上、同じく今川氏と抗争中にあった尾張国の織田氏に加担し、防衛体制を整えていく。なお、今川氏の系譜から今川氏親の長女が吉良義尭の正室であったことが判明している他、今川氏の血を引いていない側室の子である義安が東条吉良だけでなく西条吉良の家督をも望んで西条吉良の重臣と争った形跡があり、今川氏に近い重臣に対抗するために斯波氏や織田氏と結んだ可能性も指摘されている。

しかし、長年の抗争で衰退させた家運の回復までには至らず、天文18年(1549年)に今川義元の猛攻に敗退する。捕らえられた義安の身柄は駿河に抑留された。西条吉良氏を継いでいた義安の弟吉良義昭は、今川氏に東条吉良氏もあわせて継ぐよう命じられ、東西の吉良氏はこうして同一化した。しかし今川氏への隷属性の高いものであった。ただし、小林輝久彦は天文23年(1554年)には一旦許されて義安が両吉良氏を継いだものの、弘治元年(1555年)に再度今川氏に叛旗を翻した結果、義昭が継いだものとする説を出している。

なお、当時の今川氏にとっては吉良氏の存在は悩みの種でもあった。天文18年9月5日付で今川義元の重臣である太原雪斎が吉良義安に充てた書状は、義安を「御屋形様」と呼んだ上に宛先も義安本人ではなく「西条諸老」すなわち義安の家老宛になっている。現実の世界では今川氏は駿遠三の3か国を支配して吉良氏を従属下に置いているにも関わらず、書札礼の世界では雪斎は義安の陪臣(家来の家来)として振る舞わなければならなかった。

ところが、桶狭間の戦いで義元が討ち取られ、三河国の支配を目指す松平家康(のちの徳川家康)と義昭は対立することになる。義昭は善明堤の戦いや藤波畷の戦いを経て、家康に降伏する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が勃発すると一向一揆方に加担して、再び家康と戦った。しかし義昭は破れ、三河国を出奔し、家康は西条吉良家の家督も義安に相続させた。

義昭は織田信長の周旋により、尾張守護の斯波氏およびその一門の石橋氏と同盟を結ぶまでに漕ぎ着けたが、斯波義銀と席次を巡る争いを起こしている。斯波氏もまた、足利将軍家一門中将軍家や吉良氏に並ぶ名族であった。

江戸時代前期
江戸時代には、義安の子義定が松平清康の妹を母としていた関係で徳川氏に取り立てられ、その子義弥の代に至り旧吉良荘内で3,000石を領して、高家の家格を付与された。これ以降の吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続する。

義弥の次は吉良義冬が相続した。

義冬の長男吉良義央は、赤穂事件(忠臣蔵)で著名である。義央は、元禄14年(1701年)、儀典の指導に関して勅使饗応役の播磨赤穂藩主浅野長矩との間に確執を生じ、長矩から殿中刃傷を受け、長矩の切腹後、元禄15年(1702年)に大石内蔵助以下浅野の遺臣らによる本所吉良邸への討ち入りを受けて討ち取られた。元禄16年(1703年)には義央の孫にあたる当主吉良義周が改易された。

江戸時代後期
義冬の次男義叔(義央の弟)は東条姓(東条氏は室町時代の吉良氏別称)を名乗って、子孫も旗本として将軍家に仕えていたが、享保17年(1732年)、義叔の孫に当たる義孚が、義央の家系が絶えていることを理由に、東条家から吉良家への復姓を幕府に願い出て許された。

ただしこの再興吉良家は並みの旗本としてであり、高家の格式は与えられなかった。以後、吉良家は明治維新まで旗本として存続する。

歴代
吉良長氏
吉良満氏
吉良貞義
吉良満義
(西条吉良)(東条吉良)

吉良満貞  吉良尊義
吉良俊氏  吉良朝氏
吉良義尚  吉良持長
吉良義真  吉良持助
吉良義信  吉良義藤
吉良義元  吉良持清
吉良義尭  吉良持広
吉良義郷  荒川義広
吉良義安
吉良義昭
吉良義定
吉良義弥
吉良義冬
吉良義央
吉良義周

奥州(武蔵)吉良氏
本姓は源氏。三河吉良氏の同系。

足利義氏の四男・吉良義継が、兄・長氏と同じく三河国吉良荘を本拠としたことにはじまる。長氏が同荘西条に拠ったのに対して義継は東条を領し、前期東条吉良氏とも呼ばれた。東条の城は東条城で、場所は現在の西尾市吉良町駮馬(まだらめ)城山である。ただし尊卑分脈では義継の子吉良経氏が「(西条吉良の)吉良満氏の子となった」「号吉良(吉良を号す)」と記述されている。

今川氏

今川氏(いまがわし)
日本の武家。
本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。

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家紋 足利二つ引両

本姓
清和源氏義家流
家祖
今川国氏
種別
武家
士族
出身地
三河国幡豆郡今川荘
主な根拠地
駿河国
遠江国
著名な人物
今川了俊
今川範忠
今川義忠
今川氏親
今川義元
今川氏真
支流、分家
品川氏(武家)
堀越氏・瀬名氏(武家)
蒲原氏(武家)

概要
前述のとおり、今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる。「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたように、足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領や侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めた。軍功により副将軍の称号をゆるされた今川範政の子範忠は永享の乱の戦功によって室町将軍家から彼とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けたため日本各地で栄えていた今川姓も駿河守護家のみとなったと伝えられる。しかし、範忠没後に一時期宗家の地位を争う立場にあった小鹿氏にはその後も万一の際の家督継承の有資格者として今川姓を許されていたとする研究もある[1]。

駿河今川家:駿河守護職を代々継承した嫡流。本稿で記述。
遠江今川家:1.の分家で、遠江に所領を与えられた今川貞世(了俊)を祖とする一族。瀬名氏を参照。
肥前今川家:同じく1.の分家で、肥前に所領を与えられた今川仲秋を祖とする一族。持永氏を参照。

家伝
鎌倉時代
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今川氏発祥地碑(愛知県西尾市)

足利義氏の庶長子として吉良家を興した吉良長氏の2男である国氏が、吉良氏の所領から三河国幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる(あるいは国氏は長氏の甥で、養子になったとも言う)。現在、西尾市今川町には愛知県によって建てられた今川氏発祥地の石碑がある。

吉良氏・今川氏の祖であった長氏は、足利家惣領を継いだ泰氏の兄にあたることから、吉良氏に次ぐ足利一門として重きをなし、渋川氏・石橋氏とともに「御一家」と称されて別格の扱いを受けたことや、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という序列観が人々の間に定着したのも、こうした背景があってのことであった。しかし現実には、足利将軍家には多くの別家が多くあり、吉良氏がそうした家系を押しのけ足利本家を継げる可能性は限りなく低かった。

南北朝時代から室町時代
鎌倉幕府滅亡から建武の新政を経る頃には、国氏の孫(基氏の長男)である今川頼国が四人の弟[注釈 1]や子達を率いて足利尊氏の北朝方に属し、各地で戦功を挙げた。頼国は中先代の乱の際の小夜中山合戦にて北条時行方の名越邦時を討ち取る功績を挙げたが、相模川の合戦で三弟の頼周と共に戦死、二弟の範満も小手指原の戦いで戦死してしまう。これらの功績により、頼国の子頼貞は丹後・但馬・因幡の守護に任ぜられた。また頼国の末弟で、尊氏近くに仕えていた範国も駿河・遠江の守護に任じられた。 観応の擾乱に際して、範国の嫡男範氏は尊氏方に属して功を立て、駿河守護職を継承。範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲した。駿河守護である今川氏は境を接する関東公方領を監視する役割を将軍家から負わされていたともいう。

今川氏の幾人かは室町幕府の侍所の長官にも任命されるなど、斯波氏・畠山氏・細川氏・一色氏・山名氏・赤松氏・京極氏・土岐氏らとともに幕府の宿老の一人もつとめた。

また、範氏の弟で肥前守護の貞世(了俊)は管領の細川頼之により九州探題に任じられると、南朝勢力の強かった九州を平定する事に成功したが、足利義満からは了俊の勢力や名声の高まりを快く思われていなかった様である。やがて大内義弘が挙兵する応永の乱が勃発するが、一時これに加担する動きを見せた鎌倉公方の足利氏満を裏で焚き付けたのが了俊である、との疑念を掛けられた。討伐の対象になるところを上杉憲定たちの助命活動が実を結び、義満への上洛謝罪で赦された。しかし中央政界から追われたれた上に、遠江半国の守護となってしまった(残りの半国の守護は弟の今川仲秋)。その子孫は守護職を斯波氏に譲った後は駿河に土着し駿河今川家に仕えた。

戦国時代
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今川義元の馬印に描かれた赤鳥紋「今川赤鳥」

戦国時代の15世紀末に至り、伯父伊勢盛時(北条早雲)の助けで家督争いに勝利した氏親は、亡父義忠の代に頓挫していた遠江への再侵攻を試みた。その結果、敵対する斯波氏を排することに成功して遠江守護職を獲得する。また、甲斐国の乱国状態に介入し、甲斐西郡の国衆大井氏を従属させている。領国統治においては分国法「今川仮名目録」を定めて、今川氏を戦国大名に発展させた。駿府には冷泉為和など戦乱を避けた公家が下向し、文化的にも円熟した時代を迎えるようになった。

氏親没後は正室寿桂尼が嫡男・氏輝を後見した。天文5年(1536年)3月17日に氏輝・彦五郎が死去すると、氏輝の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳の間で家督争い「花倉の乱」が勃発する。花倉の乱は栴岳承芳が制し、今川義元と改名して今川家の当主となる。義元期にはそれまで敵対していた甲斐の武田氏と和睦して甲駿同盟が結ばれ、これにより今川氏と相模の後北条氏との関係を悪化させ、「河東の乱」を引き起こす。河東の乱は武田氏の当主・武田晴信(信玄)の仲介もあり今川・後北条氏間では同盟が結ばれ、さらに武田氏と後北条氏の間でも甲相同盟が結ばれており、三者の関係は、甲相駿三国同盟に発展する。

義元は三国同盟を背景に三河進出に力を注ぎ、弱体化した三河国の松平氏を従属させたほか、同じく尾張の織田氏と「安城合戦」「小豆坂の戦い」などを戦い、三河から織田氏を締め出すことに成功した。松平氏の当主である松平元康(徳川家康)は幕府の奉公衆で駿河今川氏の重臣でもあった今川関口家から正室を迎えた。こうして、駿河・遠江・三河の3か国を支配する上に尾張の一部を有するが、1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間の戦いで織田信長に本陣を襲撃され、敗死した。

義元の跡を継いだ氏真の代には、三河岡崎城で松平元康が自立するなど支配領国の動揺を招き、臣従国人たちの今川離反を誘発する。氏真が自ら出陣した造反軍征伐戦では、三河宝飯郡において松平軍に大敗する。やがて吉田城を失陥し、三河の支配権も喪失する。

甲斐の武田氏は三国同盟を背景に越後国の長尾景虎(上杉謙信)と川中島の戦いを繰り広げていたが、川中島の戦いは永禄4年(1561年)の契機に終息する。今川氏真の妹である嶺松院は武田信玄の嫡男・義信に嫁ぎ、この婚姻により甲駿同盟が成立していたが、武田家では永禄8年(1565年)に義信の謀反が発覚し幽閉され、永禄10年(1567年)10月19日に死去する義信事件が発生。嶺松院も駿府へ送還され甲駿関係は険悪化。さらに武田家では信玄四男の諏訪勝頼(武田勝頼)が世子となり、勝頼の室に織田信長の養女を迎え関係を持つようになるなど、次第に今川との敵対的姿勢を見せるようになる。

永禄11年(1568年)末に武田信玄は徳川氏と同盟し、今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻に対して後北条氏は今川に加勢し、これにより甲相同盟も破綻した。今川氏は数年の間に領国駿河と三河を武田氏と徳川氏(松平氏改め)によって東西から瞬く間に切り獲られた[注釈 2]。1568年(永禄11年)、遠江に追い立てられた氏真は、最後の拠点掛川城を徳川軍の石川家成に明け渡し、掛川城主の朝比奈泰朝等と共に北条氏を頼って小田原に退去。戦国大名としての今川氏は桶狭間の戦いから8年で滅亡し、駿河は武田領国化される。

江戸時代
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観泉寺(東京都杉並区)
氏真は曲折を経て徳川家康の庇護を受けるようになり、近江国野洲郡(現・滋賀県野洲市)に500石の知行地が安堵された。氏真の嫡孫・直房は江戸幕府に出仕して高家職(奥高家)に就き、秀忠・家光・家綱の三代にわたって朝廷との交渉などに奔走した。1645年(正保2年)、京都への使者を務めて家康への「東照宮」号宣下を得た功により、家光から武蔵国多摩郡井草村(現・東京都杉並区)など500石の知行を加増され、家禄は都合1000石となっている。直房の官位は今川家歴代で最も高い左近衛少将まで昇り、子孫からは中興の祖と仰がれた。

高家旗本として存続した江戸時代の今川家では、11人の当主のうち、直房・氏睦・義泰・義彰・義用・範叙の6人が高家職に就いている。幕末の当主・範叙は、高家出身者として唯一若年寄に就任し、官軍との講和・江戸城の開城に際して尽力した。しかし明治維新後は、他の士族と同じく家禄を失って没落したうえ、一人息子である淑人にも先立たれた。1887年(明治20年)、範叙の死によって今川氏は絶家した。

江戸時代における今川氏の菩提寺は、杉並区今川の宝珠山観泉寺(曹洞宗)、杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)である。観泉寺にある今川氏累代の墓は東京都指定旧跡となっている。なお、観泉寺の住所である「今川」は、この地が今川家の知行地だったことにちなんでいる。

なお、氏真の次男の高久も徳川秀忠に出仕し、品川氏を称して[注釈 3]本家とともに高家に列した。

系譜
源義家
源義国
足利義康
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
今川国氏
今川基氏
今川範国
今川範氏
(駿河家)
今川泰範
今川範忠
今川義忠
今川氏親
今川義元

2020年01月14日

源義康

源義康 みなもと の よしやす
足利義康 あしかがよしやす

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足利氏の祖の足利義康像

平安時代末期の武将。
足利氏の祖。
陸奥判官とも称した。
日本の平安時代の武士

時代
平安時代後期
生誕
大治2年(1127年)
死没
保元2年5月29日(1157年7月7日)
改名
義保→義泰→義康→道達(どうたつ)
別名
足利義康、足利陸奥判官、足利蔵人判官
墓所
栃木県足利市家富町の鑁阿寺
官位
足利庄下司職、北面武士、左衛門尉、検非違使、従五位下、蔵人、陸奥守
主君
鳥羽上皇
氏族
河内源氏義国流(足利氏)
父母
父:源義国、母:源有房の娘
兄弟
義重、義康、季邦

正室:藤原季範の養女(藤原範忠の娘)

義清、義長、義兼、義房

生涯
平安後期に前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の子・義国の次男[1]。

父から下野国足利荘を相続し、足利を名字とした。父・義国の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父と共に上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。

康治元年(1142年)10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、義康は下司となった。久安の頃に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽上皇に北面武士として仕え、蔵人や検非違使に任官した。また陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。

保元元年(1156年)、死期が迫った鳥羽法皇が特に信頼できるとして後事を託した五人の武士の中に義康の名もあった。法皇崩御後に起こった保元の乱では、源義朝と共に後白河天皇側に付き、平清盛の300騎、義朝の200騎に次ぐ100騎を従え、天皇方主力として最北方の近衛方面の守備を担当した。乱後、敵方の降将・平家弘父子を処刑。論功行賞により昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官した。

将来を嘱望されたが、翌年病を得て31歳で没したという。

畠山氏

畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。
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家紋 あしかがふたつひき
   足利二つ引

本姓
桓武平氏高望王流
清和源氏(河内源氏)
家祖
畠山重能
畠山義純
種別
武家
士族
出身地
武蔵国男衾郡畠山郷
主な根拠地
河内国、紀伊国
大和国、越中国
能登国、陸奥国
著名な人物
畠山重忠、畠山国清
畠山満家、畠山政長
畠山義就、畠山義続
畠山義継、畠山一清
支流、分家
岩松氏(武家 → 華族(男爵))
二本松氏(武家)
田中氏(武家)
河内渋川氏(武家)
安井氏(武家) など

室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。

また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。

概要
平安時代・鎌倉時代
坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。

その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女[注釈 1]と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった[注釈 2]。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。

義純の家系(源姓畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の中で別家扱いの足利尾張家(武衛家、いわゆる斯波家)に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。

紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。

室町時代以降
編集
建武3年(1336年)に足利尊氏が室町幕府を創立すると、畠山家はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。足利家の内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清は足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、その一方で畠山家嫡流の畠山高国・国氏父子は、観応2年(1351年)直義派の吉良貞家に敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松に移った(奥州畠山家)。

本来の嫡流である奥州畠山家が衰退する中で、畠山国清の家系(金吾家)が畠山家の惣領格となる。国清は関東管領に任命されて東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立し、康安元年(1361年)に失脚した。国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深がのちに守護に任命され畠山家を再興させる。義深の子・畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱で功績を挙げるなどして足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど守護大名として力をつける。

応永5年(1398年)には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家や細川京兆家とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。基国の子・畠山満家は義満には冷遇されたが、足利義持の代になってから表舞台に復帰して管領に就任する。満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む足利義教の干渉に苦しめられるが、畠山家の内紛を鎮めて細川家や山名家と拮抗(きっこう)する勢力を維持した。

しかし、持国の子畠山義就と甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(総州家)と政長流(尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。

越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが、尾州家の紀伊だけは最後まで勢力を保った。江戸時代においては旗本や高家として数家が残った。

平姓畠山家
歴代当主
畠山重能 - (平姓畠山氏の祖)
畠山重忠
畠山重保

蘇我氏

蘇我氏(そがうじ、そがし)
「蘇我」を氏の名とする氏族。
姓は臣(おみ)。
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氏神と推測される宗我坐宗我都比古神社
(奈良県橿原市)

氏姓
蘇我臣
氏祖
武内宿禰
(孝元天皇の後裔)
種別
皇別
本貫
大和国高市郡蘇我邑
著名な人物
蘇我稲目
蘇我馬子
蘇我蝦夷
蘇我入鹿
蘇我赤兄
後裔
石川朝臣

「蘇我」の表記
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蘇我 - 『日本書紀』
宗賀 - 『古事記』
宗我 - 『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』、『日本三代実録』
巷奇 - 『元興寺縁起帳』

出自
『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていないが、河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)および葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠としていた土着豪族であったとされる。 『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。

歴史
王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的もあったと推察される。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。

全盛期
稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある)。

稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子まで引き継がれるが、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。

ここから崇峻天皇の暗殺や、推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷による天皇をないがしろにするふるまい、入鹿による上宮王家(山背大兄王)の討滅、叔父で専制政治に反対する境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられており、蘇我氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。

しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論である。

大化の改新から壬申の乱まで 編集
蘇我氏は大化の改新(乙巳の変)にて滅びた、と認識されることが多い。

645年に中大兄皇子、中臣鎌足らによって、入鹿が暗殺されるとともに蝦夷が自殺する(乙巳の変)と蘇我氏の勢力は大幅に低下するが、これはあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の没落・滅亡だけにとどまる。乙巳の変には、傍流である蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子の協力者として関わっていた。石川麻呂はこの後に右大臣に任じられ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に左遷させられた(口封じとの説もある)。しかし、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からないが右大臣と推定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の高い地位を保持し続けている。

連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である御史大夫の蘇我果安は壬申の乱で大友皇子側について敗れ、それぞれ流罪・自害となった。しかしその甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。

このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは蘇我氏(連子の系統)は続いた。

蘇我系石川朝臣 編集
蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇)を輩出した(それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘が母)。

しかしながら、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が、持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、また文武天皇の嬪の石川刀子娘が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分を剥奪される事件なども起こしている。角田文衛の説によると、刀子娘には広成・広世の2男があり、母に連座して両皇子の皇族の身分を奪い、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされる。

また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である穂積皇子も但馬皇女との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸いにも持統天皇崩御後に知太政官事に出世したが、若くして亡くなった。

不比等の正妻は、安麻呂の娘の蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)である。その故を以て、その弟の石川石足と子の石川年足は嫡流の武智麻呂を祖とする藤原南家と結びつくようになる。年足は、武智麻呂次男の藤原仲麻呂が設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たり、中流貴族としてなんとかその命脈を保った。

衰退 編集
しかし、その藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退してしまうと、石川氏も平安京遷都後に亡くなった石川真守(正四位上・参議)を最後に公卿は出なくなる。その後、元慶元年(877年)になって石川木村が先祖の名(蘇我石川)をもって子孫の氏の名称とするのでは、諱を避けることができず、死後に生前の実名を忌んで口にしない風習に反するとして、宗岳朝臣姓に改姓する[1]。のち、氏の表記は宗岳から宗岡に、読みも「そが」から訓読みの「むねおか」に変わった[2]。

江戸時代の地下家である青木家(史生など)・三宅家(召使副使)などが、宗岡姓を称した。また、蘇我氏の血統は、藤原不比等に嫁いで武智麻呂・房前・宇合の三男を儲けた蘇我娼子を通して現代にも伝わっている。なお他に蘇我氏の血を残したのは、蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛であり、その系統は蘇我堅塩媛 ― 桜井皇子 ― 吉備姫王 ― 皇極天皇 ― 天智天皇 ― (以後歴代天皇)となる。

蘇我氏渡来人説
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門脇禎二が1971年に蘇我氏渡来人説を提唱した[3][4]。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[5][6]を得た一方、加藤謙吉や坂本義種らが批判[7][8]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であるという指摘がある[9]。

問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することには問題点がある[10][11]。

「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること
満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている[12]。また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)[注釈 2]とされているように、外国人との混血の通称であり、満智韓子は混血児であることを示す[13]。

2020年01月13日

石谷氏

石谷氏は、日本の氏族。遠江石谷氏(いしがやし)と土岐石谷氏(いしたに/いしだに/ いしがい・し)がある。

遠江石谷氏
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家紋 九曜星

本姓
藤原南家為憲流二階堂氏庶流
家祖
石谷政清
種別
武家
出身地
遠江国佐野郡西郷荘石谷[1]
主な根拠地
遠江国佐野郡西郷
駿河国安倍郡足久保[2]
著名な人物
石谷貞清
石谷清昌
石谷穆清
支流、分家
石貝(異体字)
石ヶ谷(異体字)

遠江国佐野郡西郷石谷(現在の静岡県掛川市)を本貫とする石谷氏は藤原南家為憲流二階堂氏の流れを組むとされる、戦国時代から江戸時代にかけての武家一族。しかしながら、石谷氏の祖である石谷政清の曾祖父、二階堂行晴以前の系図は明らかではなく、『寛永諸家系図伝』に拠れば、二階堂行秋(因幡守、法名:行欽)−二階堂行晴−西郷行清−二階堂清長−石谷政清とされている。西郷民部少輔と二階堂行秋の妹との子の内、次男である行晴が二階堂行秋の後を継いだとされ、石谷氏を称した政清に至るまで何度も苗字を変更しており、政清自身は当初西郷氏を称していたとされる。政清が名字を改めたのは石谷村に移り住んだことに由来するとされるが、一説には徳川家康の側室、西郷局に憚ったためとも伝えられている。なお、石谷氏の血族である西郷氏については、『掛川市誌』などに拠れば、遠江三十六人衆に数えられ、山科家の地頭代として西郷庄に影響のあった西郷氏と関連性が見受けられるものの、俗説にある三河西郷氏との関連性は不明である。基本的な家紋は、遠江石谷氏の由来である石谷村の九つの巨石(名字石、家紋石、九曜石)にちなみ九曜星だが、桑原政重の系統は石餅九曜・追沢瀉であるとされる。

安倍七騎に数えられる石谷氏(石貝氏)の石谷重郎左衛門は、遠江石谷氏の一族と伝えられ、今川氏・武田氏に仕えた後、徳川氏に仕えたと言われる。

一族
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石谷政清
遠江石谷氏の祖。通称は十郎右衛門。今川義元・氏真・徳川家康に仕える。
石谷貞清
政清の孫で徳川家旗本。島原の乱や慶安の変で活躍した。江戸北町奉行を勤める。石谷十蔵の氏神という石ヶ谷明神が掛川市にある。
石谷清昌
佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の行政に深く関与したとされる。
石谷穆清
石谷貞清の末裔で幕末の徳川家旗本。江戸北町奉行を勤める。安政の大獄に関与したとされ、大老・井伊直弼の片腕的存在と言われる。

土岐石谷氏
美濃国土岐郡の土岐氏を発祥とする一族。鎌倉時代に土岐光行が美濃国方県郡石谷の地頭職を得、嫡子・国衡に分け与えたことが石谷氏の始まりとされる。室町時代には明智氏、肥田氏とともに奉公衆となり、一族が在京した。

戦国時代に斎藤道三が台頭すると石谷対馬守はこれに従うが、長良川の戦いにおいて道三に味方し美濃の石谷氏は滅亡した。在京の石谷氏は石谷光政が石谷頼辰(斎藤利賢の子)を養子として娘を娶せ、その石谷頼辰は明智光秀の家臣となった。なお、光政のもう一人の娘は長宗我部元親の正室である。頼辰は山崎の戦い後に土佐に逃れて義兄弟である長宗我部元親に重用されたが、戸次川の戦いで戦死している。

石谷光政

石谷光政(いしがいみつまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
奉公衆。
出家して空然(くうねん)と号し、
石谷空然の名でも知られる。

時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
生年不詳
死没
没年不詳
改名
石谷光政→石谷空然
別名
通称:兵部大輔、法名:空然
官位
兵部大輔
幕府
室町幕府
主君
足利義輝→長宗我部元親
氏族
石谷氏

正室:不明
継室:蜷川親順の娘

女(石谷頼辰室)
石谷氏(長宗我部元親室)

養子:頼辰

略歴
石谷氏は美濃国方県郡石谷村(現岐阜市石谷)を本貫地とし、土岐氏の支流で清和源氏の流れを汲む。

石谷氏はもともと室町将軍家に代々仕えた奉公衆の1つであるが、光政は実は室町幕府第13代将軍足利義輝の庶子であるともされ、親政を目指した足利義輝の側近として活躍した。ただし光政は義輝とほぼ同年代かむしろ年長と考えられ、子とするには少々無理があるのでこれは誤伝であろう。

光政は男子に恵まれなかったので、同族の土岐氏支流の明智氏の縁者である斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として迎えて、長女を娶らせた。永禄6年(1563年) には蜷川親長の仲介で、次女を土佐国の戦国大名・長宗我部元親に嫁がせた。

永禄8年(1565年)、義輝が松永久秀・三好三人衆に暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。以後、娘婿である元親に仕え、実家の斎藤氏を頼って明智光秀の家臣となった頼辰を介して、織田信長との取次役を務めた。

没年も不明だが、『石谷家文書』にある天正12年(1584年)付けの細川信良の書状が空然・頼辰の連名の宛名であることから、この頃までは生存していたようだ。

長宗我部信親

長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)
安土桃山時代の武将。
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男であった。
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落合芳幾画

時代
安土桃山時代
生誕
永禄8年(1565年)
死没
天正14年12月12日(1587年1月20日)
改名
千雄丸(幼名)→長宗我部信親
別名
仮名:弥三郎
戒名
天甫寺常舜禅定門
墓所
高野山。高知県高知市の天甫寺
主君
長宗我部元親
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部元親、母:元親夫人(石谷光政の娘)
兄弟
長宗我部信親
香川親和
津野親忠
長宗我部盛親
右近大夫
長宗我部康豊
女(一条内政室)
女(吉良親実室)
女(佐竹親直室)
女(吉松十左衛門室)


正室:石谷夫人 (石谷頼辰の娘)

女(長宗我部盛親正室)

生涯
出生と活躍
永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。

幼少時から聡明であった[注釈 2]ため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀と名馬を与えられた。元親の思惑と信長の戦略が一致したもので、元親の外交の巧みさと、明智光秀の発信力があったことによる成果である。なお、2013年に発見された『石谷家文書』(林原美術館所蔵)に所収された元親から石谷頼辰(信親の生母の義兄にあたる)に充てられた書状の中でこの信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており、荒木村重の反乱が発生した天正6年(1578年)に比定する説もある。

その後は父に従って各地を転戦した。信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。

戸次川の戦いと最期
天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が豊後に進入してきたことを訴え救援を求めた[4]。秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐の仙石秀久を主将にし、長宗我部元親・信親を加え豊後に出陣を命じた。

島津家久が豊後に侵入し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。12月11日、仙石秀久と長宗我部信親は、これを救援しようと戸次川に陣をしいた。戦略会議において仙石秀久は川を渡り攻撃するべきと主張した(『土佐物語』)。これに対して長宗我部元親は加勢を待ちそれから合戦に及ぶべきであるとして、仙石の作戦に反対をしたが(『元親記』『土佐物語』)[6]、仙石は聞き入れず、十河存保も仙石に同調した。このため川を渡って出陣することになり戦闘は12月12日の夕方から13日にかけて行われた[7]。信親は仙石の決定を批判し、家臣に対して「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」と吐き捨てたという(『土佐物語』)。

合戦当日、先陣の仙石の部隊が真っ先に敗走したため、長宗我部の3千の兵が新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になったが、元親と信親は乱戦の中に離ればなれになってしまった。元親は落ちのびることができたが、信親は中津留川原に留まったものの、鈴木大膳に討たれた[8]。享年22。信親は桑名太朗左衛門に退却を促されたが引かず、四尺三寸の大長刀を振るい8人を斬り伏せた。敵が近くに寄ってくると長刀を捨て、今度は太刀で6人を斬り伏せたとされる(『元親記』)[9]。信親に従っていた700人も討死にし、十河存保も戦死し、鶴ヶ城も落城した[8]。

戦後、元親は信親の戦死を悲しみ、谷忠澄を使者として島津の陣に遣わし、信親の遺骸をこい受けて、高野山の奥の院に納めたが、のちに分骨して高知市長浜の天甫寺に埋葬した[10]。

人物・逸話
信親は文武に優れ礼儀正しく、父・元親は信親の将来を大いに嘱望し、また家臣や土佐国の民からの人望も厚かったといわれる[11]。元親は信親のために一流の学問・武芸の師を畿内など遠国から招いて英才教育を施し、長宗我部家のさらなる覇業を託していた。立派な若武者に成長した信親を元親は、「樊噲(前漢の初代皇帝・劉邦の腹心の豪傑)にも劣るまい」と自慢し期待を寄せていたという。織田信長は信親の噂を聞いたとき、自らの養子に迎えたいと述べたという逸話もある。

身長は「背の高さ六尺一寸(約184cm)」、容貌は「色白く柔和にして」「詞すくなく礼儀ありて厳ならず」と記され、知勇兼備の武将であったといわれる(『土佐物語』)[10]。走り跳びで2間(約4m)を飛び越え、飛びながら刀を抜くこともできたという[12]。『フロイス日本史』によると、キリスト教入信を考えていたとされる。

元親の信親への期待が大きかったため、戦死したことの打撃も大きく、岡豊に帰った元親の生活は、これ以後一変したとされる[13]。信親の早すぎる死は、後継者として育て上げていた元親にとって悲嘆が強く、変わり果てた姿で父の元へ帰ってきた信親を直視出来ず、泣き崩れたという。また信親だけでなく長宗我部家を背負って立つ若い人材の多くが戦死した事もあり、これより後、長宗我部氏は戦死した家臣団の再建における家臣間の諍いや後継者騒動によって徐々に衰弱していくことになる。元親の信親に対する愛情は並々ならぬものがあり、信親にあった唯一の女児(盛親にとって姪にあたる)を、新たに後継者とした盛親の正室として娶わせることで、信親の血統を長宗我部氏当主に続かせようとしたほどである。

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