2019年12月16日
足利氏
足利氏(あしかがし)
あしかがふたつひき
足利二つ引
引両紋
日本の氏族。室町幕府の将軍を輩出したことで知られる。
日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。
本姓 清和源氏(河内源氏)義家流
家祖 足利義康
種別 武家華族(子爵)
出身地 下野国足利郡足利庄
主な根拠地 山城国
相模国鎌倉
著名な人物
足利義兼
足利義氏
足利泰氏
足利尊氏
足利直義
足利義満
足利義持
足利義教
足利持氏
足利義政
足利義視
足利成氏
足利義尚
足利義稙
足利義晴
足利義輝
足利義昭
支流、分家
斯波氏(武家→華族)
細川氏(武家→華族)
畠山氏(武家)
今川氏(武家)
吉良氏(武家)
一色氏(武家)
加古氏(武家)
小俣氏(武家)
石橋氏(武家)
渋川氏(武家)
大崎氏(武家)
上野氏(武家)
桃井氏(武家)
平島氏(武家→平民)
喜連川氏(武家 → 華族)
仁木氏(武家)
など
通字は「義」(よし、足利将軍家ほか)
または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主
および鎌倉公方・古河公方家など)。
経歴
出自
平安時代に河内源氏の棟梁、
源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本貫とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏を称する。新田氏とは同祖の関係である。
平安・鎌倉時代 編集
義国の次男・源義康(足利義康)は鳥羽上皇の北面武士となり、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦う。藤原季範の娘(実は季範長男・範忠の娘=源頼朝の母の姪)を妻にしている。その子足利義兼は治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、御門葉として源氏将軍家の一門的地位にあった。
足利義氏以降のことと思われるが、上総・三河の守護職を務める。また細川氏、斯波氏、渋川氏、一色氏、小俣氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、仁木氏、上野氏、戸崎氏などの庶流を分出し、一族は全国に広がった。
源氏将軍家滅亡後も北条氏とは婚姻や偏諱を通じて良好な従属関係を維持してきた(後述)が、第4代当主・足利泰氏は鎌倉幕府に無断で自由出家(一説では、謀反の疑いがあったとされるが真偽は不明である)・引退し、第5代当主・足利頼氏と上杉重房の娘の間に生まれた第6代当主・足利家時は霜月騒動に関連して自害したと言われている。一方で、家時の死は北条時宗への殉死によって北条氏からの猜疑を回避する要素があり、その結果幕府滅亡直前まで足利氏は北条氏の信頼を受けたとする見方もある。
第7代当主・足利貞氏は正室である北条一族の金沢顕時の娘・釈迦堂殿との間に長男・足利高義をもうけたが、高義は早世したため上杉重房の子、頼重の娘・上杉清子との間にもうけた足利尊氏(高氏)が足利氏第8代当主を継いだ(現在の研究では貞氏 → 高義 → 貞氏(復帰) → 尊氏と継承されたと考えられているが、高義は歴代には数えられない)。清子との間には尊氏と並んで両将軍と呼ばれた足利直義ももうけている。尊氏は正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた。
そもそも祖先の源義国は源氏の源義家の子ではあるが傍流に過ぎなかった。孫の義兼と源頼朝が縁戚関係にあって従弟であったこともあり、義兼は早くから幕府に出仕、その血縁もあって頼朝の声がかりで北条時政の娘を妻にして以来、前半は北条得宗家と、幕政後半は北条氏の庶流でも有力な一族と、幕府に近い北条氏との縁戚関係が幕末まで続いた。また、官位などの面においても、足利氏当主の昇進は北条氏得宗家の次に早く、後に北条氏庶家並みになるものの、それも彼らの昇進が速くなった事によるもので、足利氏の家格の下落によるものではなく、依然として北条氏以外の御家人との比較では他に群を抜いていた。また、足利氏は平時においては鎌倉殿(将軍)への伺候を、戦時には源氏の門葉として軍勢を率いる事で奉仕した家柄であった。特に北条氏にとっても重大な危機であった承久の乱で足利義氏が北条泰時・北条時房を補佐する一軍の将であった事は、北条氏にとっても嘉例として認識され、足利氏を排除する意図を抑制することになった。その結果、源氏将軍断絶の後、有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされるようになっていた。そのため、幕末の後醍醐天皇の挙兵に際して、足利氏の帰趨が大きな影響を与えた。
あしかがふたつひき
足利二つ引
引両紋
日本の氏族。室町幕府の将軍を輩出したことで知られる。
日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。
本姓 清和源氏(河内源氏)義家流
家祖 足利義康
種別 武家華族(子爵)
出身地 下野国足利郡足利庄
主な根拠地 山城国
相模国鎌倉
著名な人物
足利義兼
足利義氏
足利泰氏
足利尊氏
足利直義
足利義満
足利義持
足利義教
足利持氏
足利義政
足利義視
足利成氏
足利義尚
足利義稙
足利義晴
足利義輝
足利義昭
支流、分家
斯波氏(武家→華族)
細川氏(武家→華族)
畠山氏(武家)
今川氏(武家)
吉良氏(武家)
一色氏(武家)
加古氏(武家)
小俣氏(武家)
石橋氏(武家)
渋川氏(武家)
大崎氏(武家)
上野氏(武家)
桃井氏(武家)
平島氏(武家→平民)
喜連川氏(武家 → 華族)
仁木氏(武家)
など
通字は「義」(よし、足利将軍家ほか)
または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主
および鎌倉公方・古河公方家など)。
経歴
出自
平安時代に河内源氏の棟梁、
源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本貫とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏を称する。新田氏とは同祖の関係である。
平安・鎌倉時代 編集
義国の次男・源義康(足利義康)は鳥羽上皇の北面武士となり、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦う。藤原季範の娘(実は季範長男・範忠の娘=源頼朝の母の姪)を妻にしている。その子足利義兼は治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、御門葉として源氏将軍家の一門的地位にあった。
足利義氏以降のことと思われるが、上総・三河の守護職を務める。また細川氏、斯波氏、渋川氏、一色氏、小俣氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、仁木氏、上野氏、戸崎氏などの庶流を分出し、一族は全国に広がった。
源氏将軍家滅亡後も北条氏とは婚姻や偏諱を通じて良好な従属関係を維持してきた(後述)が、第4代当主・足利泰氏は鎌倉幕府に無断で自由出家(一説では、謀反の疑いがあったとされるが真偽は不明である)・引退し、第5代当主・足利頼氏と上杉重房の娘の間に生まれた第6代当主・足利家時は霜月騒動に関連して自害したと言われている。一方で、家時の死は北条時宗への殉死によって北条氏からの猜疑を回避する要素があり、その結果幕府滅亡直前まで足利氏は北条氏の信頼を受けたとする見方もある。
第7代当主・足利貞氏は正室である北条一族の金沢顕時の娘・釈迦堂殿との間に長男・足利高義をもうけたが、高義は早世したため上杉重房の子、頼重の娘・上杉清子との間にもうけた足利尊氏(高氏)が足利氏第8代当主を継いだ(現在の研究では貞氏 → 高義 → 貞氏(復帰) → 尊氏と継承されたと考えられているが、高義は歴代には数えられない)。清子との間には尊氏と並んで両将軍と呼ばれた足利直義ももうけている。尊氏は正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた。
そもそも祖先の源義国は源氏の源義家の子ではあるが傍流に過ぎなかった。孫の義兼と源頼朝が縁戚関係にあって従弟であったこともあり、義兼は早くから幕府に出仕、その血縁もあって頼朝の声がかりで北条時政の娘を妻にして以来、前半は北条得宗家と、幕政後半は北条氏の庶流でも有力な一族と、幕府に近い北条氏との縁戚関係が幕末まで続いた。また、官位などの面においても、足利氏当主の昇進は北条氏得宗家の次に早く、後に北条氏庶家並みになるものの、それも彼らの昇進が速くなった事によるもので、足利氏の家格の下落によるものではなく、依然として北条氏以外の御家人との比較では他に群を抜いていた。また、足利氏は平時においては鎌倉殿(将軍)への伺候を、戦時には源氏の門葉として軍勢を率いる事で奉仕した家柄であった。特に北条氏にとっても重大な危機であった承久の乱で足利義氏が北条泰時・北条時房を補佐する一軍の将であった事は、北条氏にとっても嘉例として認識され、足利氏を排除する意図を抑制することになった。その結果、源氏将軍断絶の後、有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされるようになっていた。そのため、幕末の後醍醐天皇の挙兵に際して、足利氏の帰趨が大きな影響を与えた。
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