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2019年12月28日

細川氏

細川氏(ほそかわし)
Screenshot_20191228-163401~2.png
家紋
細川九曜
読み(ほそかわくよう)

本姓は源氏、
鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏の名門足利氏の支流。
名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷
(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)
に土着したことに由来する。

本姓
清和源氏義国流
(河内源氏・足利氏流)
家祖
細川義季
種別
武家
華族(侯爵)
出身地
三河国額田郡細川郷
主な根拠地
丹波国
摂津国
阿波国
讃岐国
土佐国
淡路国
著名な人物
細川頼之
細川勝元
細川政元
細川高国
細川晴元
細川藤孝(幽斎)
細川忠興(三斎)
細川護熙(第79代 内閣総理大臣)
支流、分家
阿波国守護家(武家)
和泉国守護家(武家)
熊本藩主家(武家)
宇土藩主家(武家)
天竺氏?(武家)
など

南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。

Screenshot_20191228-170805~2.png
細川氏発祥地にある細川城址
(愛知県岡崎市細川町)

Screenshot_20191228-172739~2.png
<国宝> 洛中洛外図屏風「細川殿」
米沢市上杉博物館所蔵

南北朝時代、細川氏は足利尊氏に従い北朝・室町幕府方として活躍し、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍・足利義満をよく補佐し、以後その嫡流である京兆家は、代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた。応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥となる。戦国時代のはじめ、その子・細川政元は、将軍・足利義材を退けて幕府の実権を掌握し(明応の政変)、政敵も攻め滅ぼして細川氏の全盛期を築いた。

しかし政元には実子がなく、3人も養子を決めたことによって跡目争いを招き暗殺された。政元を暗殺した養子の一人である細川澄之は他の2人の連合軍に滅ぼされ、以後細川氏は残った養子である細川高国と細川澄元の2派に分かれ、それぞれに被官や畿内近国の諸勢力が結びついて20年余りも争った(両細川の乱)。また後年、澄元の実家阿波守護家の守護代三好氏が畿内に進出し、その勢力は主家を凌ぐようになってゆく。

高国は最終的には澄元の嫡男・細川晴元に破れ、晴元の血筋が京兆家家督となる。

しかし、家督を収めた晴元も家臣の三好長慶が率いる一族(三好氏)や松永久秀らの反乱によって細川氏が代々治める摂津・丹波・土佐などの領国から落ち延びることになり、管領職も含めかつての名門の影を徐々に失いながら京兆家は没落していった。

永禄の変で第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺された後、美濃を掌握した織田信長が15代将軍・足利義昭を擁立し、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の子細川昭元は信長に属しその妹婿となり丹波国において二郡を所領として与えられた(丹波は細川氏相伝の守護国)。しかし勢力の回復には至らず、管領や右京大夫にも任ぜられなかった。

一方、傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力した。しかし義昭と信長の対立以降は、長男の忠興(三斎)とともに信長に従い、山城国の長岡を賜り名字も長岡に改めて明智光秀の組下として活躍、丹後一国を領した。本能寺の変では光秀に味方せず、羽柴(豊臣)秀吉に服した。

秀吉の死後、忠興は徳川家康に属し、細川に復姓し関ヶ原の戦いの功により豊前国小倉藩39万9千石を領する。その子・忠利の代に肥後国熊本藩54万石の領主となり、明治維新に至り、明治時代には侯爵となる。子孫の細川護熙は、熊本県知事・内閣総理大臣を務めた。

細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。

中世
細川氏の祖は、足利氏の祖・足利義康の庶長子である矢田義清である。平安時代末期、義清は木曾義仲に属し、都から追い落とした平家軍との戦である水島の戦いでその弟義長とともに戦死している。

鎌倉時代に、足利本家の義氏が三河守護となると、義清の孫義季は兄の仁木実国、弟の戸賀崎(戸崎)義宗らとともに三河国へ進出し、細川郷を領して細川次郎と名乗った。しかし足利家同門でも家格が高く本家からの独立性が強かった斯波氏や畠山氏とは異なり、この時代の細川氏はさほど有力な御家人ではなく、その活動の記録はほとんど残されていない。矢田義清が壮年で戦死した際、残された遺児は幼かったと考えられ、有力な縁戚関係もなく足利義兼ら一族の庇護を受けたようだが、その結果、陪臣・家臣という地位にまで下がったのが原因のようである。そのために平安末期〜鎌倉初頭までは知行地もほとんどなく勢力が全くなかったと考えられる。三河に移ってから庶流も分出し、漸く勢力を養う事ができたようである。鎌倉期の庶流の中には一族から離れて同族の他氏に仕えた者もおり、後に細川氏の宿敵的存在になる同族の斯波氏の重臣である鹿草氏(完草氏)は史料から細川氏の庶流であることは判明しているが、どの流に属していたのかは不明になっている[1]。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、細川和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。元弘3年 / 正慶2年(1333年)に、尊氏が倒幕の兵を挙げると、和氏は上杉重能とともに後醍醐天皇に帰順を願う使者の役割を果たし、京都の六波羅探題攻撃にも加わった。 さらに新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子・千寿王(後の室町2代将軍・足利義詮)を補佐するために下向し、義貞に対抗して鎌倉を足利氏に掌握させる。和氏と顕氏は、尊氏の命により四国に渡り、阿波国、讃岐国を中心に南朝方との争いを勝ち抜き、在地豪族の被官化を押し進めた。この時代に、細川氏は有力な守護大名へと成長する。

和氏の嫡子である細川清氏は、当初将軍義詮の執事職(後の管領)として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚した(康安の政変)。その後南朝方に属したが、一族の細川頼之に追討されて滅び、また顕氏の子・細川繁氏も急死したため、頼春の嫡子である頼之が細川氏で随一の実力者となる。代々幕府の管領に任ぜられることになる細川氏本家の京兆家は、子がなかった頼之の弟でその養子となり跡を継いだ細川頼元の後裔を指し(頼元の血筋自体は政元までで途絶える)、その他の有力な庶家・分家も、多くは頼之の時代に派生している。

室町時代の細川氏は、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成することで、一族内訌の危険を減らし、これにより有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排し、管領・有力守護の地位を保ち続けたのである。

京兆家
Screenshot_20191228-173735~2.png
家紋
松笠菱(細川向かい松)
細川京兆家が使用していた家紋。

細川氏の宗家・嫡流であり、摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領職に任命を受けたため、管領細川家(または細川管領家)ともいう。細川京兆家の「京兆」(けいちょう)とは右京大夫の唐名「京兆尹」のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来する。またこの官位から細川右京兆とも呼称される。前述の通り、本来細川氏嫡流で権勢を誇っていた細川清氏の失脚・滅亡後、清氏を討伐し管領として幕府と細川氏隆盛の礎を築いた細川頼之(清氏の従弟)に始まり、清氏の系統に代わって頼之の系統が細川氏の本家・嫡流となった。

歴代当主の通字として、頼之の跡を継いだ弟の細川頼元に因む「元」(もと)、一部の人物は頼之に因む「之」(ゆき)の字を使用している。

頼之は中国管領、四国管領を歴任し、讃岐・阿波・土佐など四国の分国化を進めた。中央では管領となって執政し、幼少の将軍・足利義満を補佐して幕政を統轄した。頼之は義満からの信任は厚かったものの、天授5年 / 康暦元年(1379年)の康暦の政変で一旦失脚する。しかし、領国の四国に渡り阿波を中心とする分国支配を堅持することにより敵対勢力を退け、やがて中央政界に復帰した。

頼之自身は僧籍を理由に、実弟で養子(頼之に実子はいなかった)の細川頼元を京都の周囲を固める丹波・摂津の守護に推し、さらに管領にも推した。京兆家は同じく足利一門の斯波・畠山両氏とともに将軍を補佐する三管領(三管四職)、また室町幕府宿老として重きを成していく。

室町時代中後期、畠山持国との権力闘争に勝利した細川勝元は、3度にわたり計23年間も管領職を歴任し、実力者の山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏を弱体化させた。しかし将軍家や畠山家の家督相続問題などで畠山義就を後押しする宗全と畠山政長を後援する勝元は対立、東軍の総帥として足利義視を推戴して、宗全率いる西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱を引き起こし、その途中に病没する。

戦国時代前期の畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・細川政元は、明応の政変で10代将軍・足利義材(後に義尹、義稙と改名)を廃立、11代将軍・足利義澄を擁立し、幕府の実権を掌握した。政敵の畠山政長も討ち、畠山・斯波両氏は没落し、京兆家が以後管領職を独占するようになり、細川政権(京兆専制)を打ち立て、畿内周辺にも侵攻し勢力を拡大して細川京兆家の全盛期を築く。しかし政元は修験道に心頭して女性を寄せ付けなかったため妻帯せず実子がなく(弟もいなかった)、澄之・澄元・高国の3人を養子に迎えたため(高国は後付けで政元存命時の養子は澄之澄元2人だったともされる。また、高国が実家の野州家を相続したために養子縁組が解消されたとする説[2]もある)、家督争いが生じ、政元は澄元を後継にと考えたものの、永正4年(1507年)、不満を持った澄之派の配下に暗殺される。政元の死をもって頼元以来続いた細川京兆家の嫡流の血筋は途絶えることとなった。

澄之は京兆家家督を継ぐが、その後すぐに澄元と高国が結託して澄之を討ち、澄元が家督を継ぎ管領となる。しかし、政元暗殺を好機とみた前将軍・足利義尹(義稙)を擁する西国の大大名大内義興(周防守護)が上洛軍を起こし、澄元と不仲になった高国がこれと結びつき、翌永正5年(1508年)に高国は将軍義澄と澄元を京都から近江国(後には阿波国)へと追い落として義尹(将軍復帰)と義興(管領代に就任)を迎え入れ、家督を継ぎ管領となった。その後も高国派と澄元派に分裂し長期に渡って対立を続けることとなる(両細川の乱)。

約十年在京しその軍事力で支えていた大内義興が細川高国と争っていた明貿易権益を得て周防国に帰国した後も、高国は一時澄元(とその重臣の三好之長)に敗れたとき澄元側についたこともある将軍義稙と不仲になって見限り、新たに足利義晴(病死した義澄の子)を将軍に擁立するなど、管領として幕政を握り京周辺を支配下に置いていた。大永5年(1525年)、高国の隠居後に子の細川稙国が家督を継ぎ管領を継承したが、半年ほどで病死したため、翌年に畠山義堯が管領となり、細川京兆家による管領の独占継承は一旦途切れたが、幕府の実権は京兆家家督を再承した高国が引き続き持った。

大永6年(1526年)、高国が家臣を謀殺したことをきっかけに高国への反乱が起こり、その動きに乗じて今度は病死していた澄元の子の細川六郎(後の晴元、この時13歳)が、軍を実質的に仕切る家宰の三好元長(之長の孫あるいは子)とともに、将軍義晴を擁する高国に対し足利義維(義晴の兄弟)を擁して阿波国から畿内へ侵攻して高国を追い落とし、堺幕府(堺公方)を樹立し、さらに享禄4年(1531年)に高国を滅ぼし(大物崩れ)、その大きな功労者であった台頭する三好元長も討ち、和睦した将軍足利義晴を擁して家督を継ぎ管領に就任、幕政と京都を握る。その後も、晴元は高国の弟の細川晴国や高国の養子の細川氏綱や宗教一揆の法華宗などとたびたび争っていたが、天文18年(1549年)、元長の子で実力者となっていた配下の三好長慶に下克上され近江国へと追われ、細川政権は崩壊した。

主君晴元から対立する氏綱側に寝返った長慶は名目上氏綱を推戴し、氏綱が京兆家家督を継ぐが、氏綱は実権を握れず長慶の傀儡状態となり、三好政権へと取って代わられることとなった。晴元はその後も将軍・足利義輝を擁して長慶との争いを続けるがかなわず、永禄4年(1561年)に長慶と和睦し、その2年後に没した(翌年氏綱も没する)。晴元失脚後の細川京兆家はかつての権勢をすっかり失って衰退し、代わって京・畿内は織田信長が上洛するまで三好氏の勢力下となる。また、これにより政元暗殺以降長年続いた細川京兆家を二分する内訌も終結に向かうこととなった。

なお、戦国期の室町幕府研究の進展の中で明応の政変以降の細川京兆家の当主が代々管領を務めたとする話は軍記物に由来する創作に過ぎず、実際には重要な儀式の際にのみに在任していた(京兆家は軍事力で京都周辺を掌握していたため、却って幕府官職を必要とはしなかった)とする見方が有力説として浮上し、大永元年(1521年)に足利義晴の元服を終えた細川高国が管領を辞職してから室町幕府滅亡まで管領職はずっと空席のままであったとされている(従って、この見方に立つと稙国・晴元・氏綱および畠山義堯が管領に就任した事実は否定される)[3][4]。

家督を継いだ晴元の嫡子細川昭元は、足利義昭に仕えた。後に織田信長に仕え、昭元から信良と名を改め、信長の姉妹を正室として娶り義兄弟として織田家親族となった。昭元(信良より名を戻す)の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の役では豊臣方となった。大坂の陣での豊臣家滅亡後は讃岐国に隠棲し、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼って常陸国の宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。

元勝の嫡子義元の時に秋田氏の家臣に列し、子孫は陸奥国三春藩(宍戸から転封)の家老として仕えた。義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老・小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と家督が継承されている。明治期の当主和元は小学校教員や巡査を務めた[5]。

京兆家(細川本宗家)歴代当主
太字は執事・管領となった人物(※便宜上、晴元・氏綱も含む)

細川義季
細川俊氏
細川公頼
細川和氏
細川清氏
細川頼之(細川頼春(和氏の弟)の子)
細川頼元(頼之の弟)
細川満元
細川持元
細川持之(持元の弟)
細川勝元
細川政元
細川澄之(摂関家・九条政基の子)
細川澄元(阿波守護家・細川義春の子)
細川高国(野州家・細川政春の子)
細川稙国(短期間で病死後に父高国が再継承)
細川晴元(澄元の子)
細川氏綱(細川尹賢(高国の従弟)の子)
細川昭元(晴元の子)
細川元勝

典厩家

細川持賢を祖とする細川氏(京兆家)の分家の一つ。通字として主に「賢」(かた)を諱(名前)に使用する。基本的には分国を所領としておらず、初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。政賢は永正の錯乱に際しては、細川澄元に与して細川高国と対立したが、船岡山合戦で戦死する。その後は高国の与党で政賢の縁戚であった細川尹賢が継承した。尹賢は高国の大物崩れの戦いでの顛末を知り、細川晴元側に寝返ろうとしたものの許されず殺害された。

細川氏綱は、高国の後継者として晴元と対立を続けた。氏綱は、晴元から離反した三好長慶に担がれて晴元を倒し、室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の藤賢が典厩家の当主となり、将軍・足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。

信長没後、藤賢は豊臣家に仕え、以降も戦国諸侯に招かれながら細川元賢(もとかた)、重賢(しげかた)、乗賢(のりかた)と続き金沢藩士(加賀前田家家臣)として幕末に至った。

野州家 編集
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。また、細川政春が弟の春俱の家系が断絶した後に備中守護を継承すると、その官途名である安房守から、房州家とも呼ばれるようになった[6]。備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、典厩家第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。

政春の子・高国は、管領・細川政元の養子として京兆家に入り、その家督争いに躍り出ることになる(なお、高国は政元の存命中に1度は政春から野州家の家督を継いでいたが、政元没後の混乱で再び後継候補に浮上したとする説もある[2])。また通政は、戦国時代にその所領の維持を図ったのだが、出雲国の尼子晴久の圧迫を受け伊予国へ逃れた。通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長府藩家老として幕末に至った(長府細川家)。

野州家歴代当主
細川満国(細川頼元の子)
細川持春
細川教春
細川政春
細川晴国
細川輝政
細川通薫
細川政之
細川元通
阿波守護家(讃州家) 編集
阿波守護家は14世紀中頃、細川頼之の弟・詮春に始まり、代々の当主が阿波守護を代襲したことに由来する。また、讃岐守を称したことから讃州家ともいう。なお細川成之の頃から讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも称した。同時に阿波細川氏とも呼ばれる。

他の細川庶流家とは異なり、室町幕府の相伴衆を務める家柄で、当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。そのため京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称されている。数え方によって変わるが10代で終わる。

詮春から数えて4代目の持常は、6代将軍・足利義教からの信任が厚く、永享12年(1440年)に戦死したとされる一色義貫に代わり三河守護職も兼任した。しかし一色義貫の死が義教の陰謀によるものであったため、持常とそれを継いだ成之が三河国に守護権を確立する際には、一色残党の激しい抵抗に遭い、多大な犠牲を払った。

義教の信任厚い持常は、嘉吉の乱で義教が暗殺された後、赤松満祐征伐のため播磨国に出兵するも、山名持豊(宗全)に一歩遅れる形となり、播磨守護職は山名氏のものとなる。播磨を巡る山名氏と阿波細川家の潜在的対立は、持常の後を継いだ成之の、赤松家の再興運動への助力という形になって現れる。これらのことは、当初は友好的な関係にあった山名氏と細川京兆家との関係悪化を招き、応仁の乱の遠因ともなった。

成之は、応仁の乱では東軍として京兆家を盛り立てたが、細川勝元の没後、政元の時代においては、権力集中を図る京兆家としばしば対立し、摂津守護代の薬師寺元一の反乱に関与するなどした。成之は孫の一人である澄元を、京兆家・細川政元の養子に送りこむことに成功するものの、それは畿内の争乱をさらに激化させることになり、政元暗殺とその後の「永正の錯乱」へと事態は進展するのである。

なお、成之の次子の細川之勝(後の細川義春)は備中守護の細川勝久の養子となっていたが、成之の嫡男の細川政之が早世したため、義春と改名し阿波守護家を継いだ。後に義春の子の細川之持が短期間であるが備中守護にも任じられている。

成之自身は長命であったが、子である政之(1488年没)と義春(1494年没)に先立たれ、さらに永正8年(1511年)の成之の死の翌年には孫の之持が夭折するなど、短命な当主が続く。若年の当主が続く成之以降の阿波細川家においては、家宰の三好氏が台頭することになる。

京兆家の細川政元の養子となった澄元を擁した三好之長は、畿内において細川高国と抗争を続けたが敗れ、澄元もまた京兆家として主導権を取り戻せぬまま夭折する。

一方、之持の子の細川持隆は三好元長の補佐の元で成長すると、澄元の子の細川晴元や元長と協調し足利義維を擁立し、堺公方とするなど京都の幕府と対立を続けた。

堺幕府の解体後は、義維を阿波に迎え、平島公方としている。江口の戦いで晴元が没落し、三好長慶が将軍足利義輝をも追放して畿内の実権を握ると、義維の将軍擁立を主張したが、義輝との全面対立を望まない長慶の弟の三好実休と対立し、天文22年(1553年)、実休により暗殺されることになった。

なお、之持から持隆にかけての阿波守護家の動向には不明な点が多く、之持は天文年間初頭まで健在であったとする若松和三郎の説[7]と持隆は之持の子ではなく澄元の子(晴元の弟)とする馬部隆弘の説[8]が出されている。

持隆の子・細川真之は、実休とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかった。長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年(1582年)に長治の弟である十河存保(異説によれば、長宗我部元親)の攻勢を受け自刃し、阿波守護家は滅亡した。

和泉上守護家歴代当主
頼之の猶子・基之のあと、細川持久(基之の孫)、勝信(基経)、政久が守護職を継承した。明応4年(1495年)、政久は和泉上守護家と同盟し、その上で畠山尚順と結び細川政元に対抗したがその後は恭順した。しかし畠山尚順に攻め込まれ戦死した。その後、細川政元は畠山尚順を河内で破り、和泉に攻め入って支配を回復したが、そののち和泉下守護家がその地位を保つことはできなかった。

備中守護家 編集
細川頼之の末弟・細川満之を祖とし、頼重、氏久、勝久と代々備中国の守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。

備中国はもともと京兆家や阿波守護家など、他の有力守護家の影響が強く及んでおり、庄氏を初めとする国人統制も困難を極め、頼重などは永享3年(1431年)に謎の狂死を遂げている。勝久の代に、庄元資(伊豆守)との争乱が勃発し(備中大合戦)、これは備中守護家が勝利したが、国内の混乱はますます加速する一方で、以後次第に勢力を弱めていく。阿波守護家から迎えた勝久の養子である之勝(細川義春)は、実兄・政之の死に伴い後に阿波守護家に戻ったため、勝久の系統がその後守護に就任することはなく、事実上守護家は断絶した。

以降は阿波守護家の細川之持(義春の子)が一時的に備中守護を継いだ後、永正の錯乱の際に実の弟である細川澄元を支持した之持に対抗するために細川高国が細川国豊(細川春倶の子)を新しい守護として派遣した[9]。国豊とその子が早世すると、高国の実父である野州家の細川政春が備中守護となるが、永正15年(1518年)以降、備中守護の任命は長く為されなかった。備中は戦国に突入したのである。

淡路守護家 編集
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の弟の細川師氏を祖とする。師氏の子・氏春は、和氏の子・清氏が南朝に降伏すると、それに従って幕府方と戦った。子孫は代々淡路守護。将軍直属軍である奉公衆の一番番頭も務めた。戦国時代初期に細川尚春が三好之長に滅ぼされ断絶した。

淡路守護家歴代当主
細川師氏(細川公頼の子)
細川氏春
細川満春
細川満師
細川持親
細川成春
細川尚春

奥州家 編集
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏が陸奥守に就任したことが由来とされ、大外様ともいわれた家系のこと。顕氏の兄弟はそれぞれが武勇に優れ活躍したが、彼らは顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐、土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流の和氏の死後、その弟の頼春と並んで細川氏の実力者となる。顕氏は観応の擾乱で活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国を受け継ぎ、有力者として武功を積むも急死する。その後は、和氏の子・業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられたため、以後の代々の当主は京兆家に協力的な立場をとった。

細川満経は、京兆家の細川満元の片腕として政界で活躍した。また、業氏は3代将軍・足利義満、業氏の子孫の晴経は13代将軍・足利義輝の加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった。

和泉上守護家の藤孝の子・忠興が、戦国時代末期の当主・輝経の養子となり形式的には奥州細川家を継承したので、近世大名の肥後熊本藩細川家は奥州家の末裔と言うこともできる。もっとも、藤孝が室町幕府の滅亡後織田信長に属して姓を長岡に改めてからは、忠興もまた「長岡与一郎」と称し、本能寺の変の後に藤孝が隠居すると、その所領である丹後12万石を継承しているので、藤孝の嫡流であることにかわりはない。

なお、忠興の養父とされる輝経は後に忠興の重臣である松井康之(妻の弟)に招かれていたが、関ヶ原の戦いで偶々九州に派遣されていた康之が居城の久美浜城に帰国できなくなると、西軍の誘いに乗って久美浜城を乗っ取るが、西軍の敗北後に罪を問われて自害したと伝えられている(『松井家記』)[10]。

細川奥州家歴代当主
細川頼貞(細川俊氏の子)
細川顕氏
細川繁氏
細川業氏(細川和氏の子)
細川満経
細川持経
細川成経
細川尚経
細川尹経
細川晴経
細川輝経
細川忠興(細川藤孝の子。初代小倉藩主)
遠州家 編集
代々の当主が遠江守を称したことから、この名が定着した。また、遠州家とその分家は上野氏とも称しており、「細川」と「上野」の名乗りが併用されていた[11]。土佐守護代家ともいう。土佐守護は細川家の嫡流である京兆家が代々つとめたが、管領でもあり京都住が常であったことから、庶流であるこの細川家が実際に土佐に在国し守護代を代々つとめた。細川頼益(よります)以降の通字は「益」(ます)、満益(みつます)以降は足利将軍家の偏諱を受けている(系図中の太字部分、細川国益(くにます)は細川高国の1字を受けている)。頼益は細川成之の母の兄でもあり、香美郡田村(現・南国市田村)に守護代館(=田村城)をおいた[12]。 その曾孫、勝益は応仁の乱に際して東軍大将を務める細川勝元の支援のために上京[13]、その跡を継いでいた政益(まさます)・国益も永正4年(1507年)に細川政元(勝元の子)が暗殺される(永正の錯乱)と上京し[13]、やがて土佐は守護代不在の地となった[13]。また、勝益の弟である細川元治は「上野玄蕃頭」と称したために、元治の子孫は玄蕃頭家と称されたが、永正の錯乱の際に元治が高国の擁立を最初に主張したことから実際に高国が京兆家を継ぐとその功労者としてその地位を高めた[14]。その孫である細川国慶は高国の没後はその後継者である細川晴国・細川氏綱陣営の重鎮として細川晴元と戦い、一時京都を占領・支配している[15]。

土佐守護代家歴代当主
細川宗義 - 頼種 - 頼元 - 頼益 - 満益(弟に氏有) - 持益 - 勝益 - 政益 - 国益(*一説に国益は政益の弟で子は益氏とも)

遠州家分家(義幸流)・上野氏
細川宗義 - 頼種 - 義幸(頼元の兄) - 氏世 - 氏益 - 元興(弟に賢氏) - 氏盛

遠州家分家(玄蕃頭家)・上野氏
細川宗義 - 頼種 - (中略) - 持益 - 元治(勝益の弟) - 元全(政益の弟・元治の養子) - 国慶

近世
肥後細川家
(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)
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家紋 細川九曜(ほそかわくよう)
肥後細川家が使用していた家紋。

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