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2019年12月17日

斯波氏

斯波氏(しばし)
日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。

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足利二つ引

本姓   清和源氏(河内源氏)
家祖   斯波家氏 足利家氏
種別
武家   華族(男爵)
出身地  陸奥国斯波郡
主な根拠地
尾張国
越前国
陸奥国
出羽国
著名な人物
斯波家氏
斯波高経
斯波家兼
斯波義将
斯波義淳
斯波義敏
斯波義廉
斯波義寛
斯波蕃
斯波孝四郎
支流、分家
石橋氏
大崎氏
最上氏
高水寺斯波家
大野斯波家

足利尾張家
斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡(しわぐん、現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。家氏の同母弟兼氏(義顕)は、室町時代に九州探題を世襲する渋川氏の祖である。

家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏の正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こしたためか、母は側室に退き、家氏も嫡子から庶子へと改められた。代わって得宗家の北条時氏の娘が泰氏の正室となって頼氏を儲(もう)け、これが足利氏嫡流を継承することとなった。

だが元は嫡子であり足利宗家とは別に鎌倉殿御家人となった家氏は、自立できるほどの地位と所領を持てずに宗家の家人になっていった他の足利氏庶流(仁木氏・細川氏など)とは一線を画した存在であった。家氏は、弟・頼氏の死後宗家を相続した家時の幼少時にその後見人となって惣領を代行するなど、一門中でも宗家に準ずる格を有した。

この子孫が代々尾張守に叙任され、足利尾張家と呼ばれる。鎌倉時代には足利姓を称する別流の扱いであり、斯波を名字とするのは室町時代になってからのことである。「斯波」姓で記されたものでは、『荒暦』応永2年7月26日条に「管領斯波禅門(義将)」とあるものの、古記録ではさらに時代が下り、『満済准后日記』応永29年11月20日条の「斯波武衛(義淳)」が初見である。また、「斯波」の読み方についても「斯和」「志王」などの別表記から、元々は"しわ"だったものが後に"しば"に変化したとする説もある。

武衛家
名の由来
室町幕府三管領家の一つである斯波氏嫡流は、前述の通り実際には室町時代にも斯波姓で記述される例はほとんどなく、基本的には「勘解由小路武衛」や「武衛屋形」と記されており、武衛家と呼ばれた[2]。武衛(ぶえい)とは兵衛府(ひょうえふ)の唐名で、室町時代以降の斯波氏当主が代々兵衛府の督(かみ、長官)や佐(すけ、次官)に任ぜられた[注釈 1]ことに由来する。元々左兵衛督の官職は、初代将軍足利尊氏や、その弟で兄とともに二頭政治を行った足利直義、また尊氏の子で2代鎌倉公方の基氏など主に将軍の近親者に限られていたが、斯波義将が任じられ[注釈 2]、以降の斯波氏当主は左兵衛督に任官するのが慣例となった(なお左兵衛督まで進んだ可能性がある当主は義将・義重・義淳・義敏・義寛の5名)。ここからも武衛家の家格・処遇の高さを示している。

武衛家は洛中の勘解由小路に本邸を構え、その邸宅は武衛陣と呼ばれた。現在でも旧武衛邸付近は武衛陣町(京都市上京区)としてその名を残している。

幕府創成期の重鎮・高経 編集
後醍醐天皇の倒幕運動に宗家の足利尊氏がくみすると、足利尾張家当主の高経や弟家兼らもこれに従って活躍した(元弘の乱)。さらに尊氏が建武政権と袂(たもと)を分かち、新たな武家政権(幕府)を開始してからも、高経兄弟は尊氏与党として南朝方の将新田義貞を越前で討つなど活躍し、創成期の室町幕府の有力者であった。

高経の嫡男家長が『太平記』に「志和三郎」あるいは資料に「志和尾張弥三郎」などの名で現れるあたりが斯波(志和)氏を名乗るはじめで、家長は所領斯波郡のある陸奥国で奥州総大将兼関東管領として南朝方の北畠顕家らと対抗し、若くして戦死した。

家兼も奥州管領として下向して陸奥国をまとめ上げ、南朝勢力の駆逐に成功する。出羽国にも次子を送り込み、奥羽両国での子孫繁栄の礎を築いた(奥羽における斯波氏については奥州斯波氏を参照)。

観応の擾乱では高経は足利直義を支持し、尊氏を支持した家兼と対立した。その後、尊氏に降(くだ)ったものの、引付頭人に任ぜられた家兼と比較して冷遇され、一時期足利直冬と結んで幕府に反抗するなど、不遇の時代を経験している[3]。

尊氏の死後、斯波氏は2代将軍義詮の執事に任用されるようになった。しかし、執事とは宗家の家政機関であり、高師直に至るまでの代々の執事は足利宗家譜代の家来高氏の務めるところであった。つまり執事に就くことは格下・従者の扱いを受けるということであり、斯波氏は宗家とほぼ同格という意識を持つため、執事への就任を打診された高経や三男氏頼はこれを渋っていた。結局、わずか13歳の四男義将を執事に就け、高経がこれを後見する形がとられた。しかしこの頃から、執事職は単に足利宗家の家政機関として家領や従者を管理する立場を超え、幕政に参与する有力守護大名の座長的性格を持つ管領職へと形を変え、斯波氏は幕府の主導権を握ることとなる。また、執事・管領の地位上昇の結果、義将は四男でありながら戦死した長男家長に代わって嫡男となり、次男氏経や三男氏頼は隠遁(いんとん)に追い込まれることになった(氏経の場合は父が幕府に背いた時に幕府方に留まったことや九州探題としての失敗も失脚の原因ではあったが)[3]。

高経は、義将を執事(管領)に就けたほか、五男の義種を侍所頭人、孫の義高(次男・氏経の子)を引付頭人に就けて一門で幕府要職を固める体制を構築する。足利一門最高の家格を誇る長老であり、元弘の挙兵以来の元勲である高経の影響力は大きく、西国の有力大名であった大内氏や山名氏を幕府へ帰順させることにも成功し、高経体制は室町幕府の安定化に一定の成果をあげた。しかし幕府の権威を高める政策が早急すぎたことや、次男で九州探題の氏経が九州攻略に失敗したこともあって諸侯の高経への反感が高まり、高経の協力者であった佐々木道誉らの策謀によって失脚した(貞治の変)。

三管領の筆頭、足利一門の高家 編集
高経死後に義将が幕政に復帰すると、時の管領細川頼之と対立。頼之の政策に批判的な反細川派の諸侯を結集させ、3代将軍義満に対し頼之の罷免を求める康暦の政変を起こして再び管領となった。義将は、将軍義満と幕府全盛時代を支え続け、義満の没後も4代将軍義持を補佐した。この間、朝廷から打診のあった義満に対する太上天皇の追号を拒否したり、屈辱的との批判が多かった勘合貿易の廃止を提言するなど、康暦の政変以降自身の死まで、およそ30年間にわたって幕府の宿老として大きな影響力を持った。また三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏・細川氏とともに管領を出す家柄、特に三管領筆頭の家柄として重んじられた。

義将の子義重は、応永6年(1399年)の応永の乱における大内氏討伐の功により尾張守護職を、さらに後には遠江守護職も加えられて、以後はこれに本領であった越前を合わせた3か国の守護を世襲した。

勢力後退と内紛 編集
応永17年(1410年)、宿老として長年にわたり幕府に大きな影響力を与えていた義将が没すると、義重の子義淳は管領職を解任されてしまう。応永21年(1414年)には義将の甥満種(義種の子)が将軍義持の不興を被り、加賀守護職を失って高野山に隠退。永享元年(1429年)に足利義教が6代将軍に就任すると義淳が再び管領となったが、強権的な政治を行う義教と宥和的(ゆうわてき)な政策を目指す義淳は相いれず、義淳は度々管領の辞職を申し出ている。やがて嫡男義豊にも先立たれ心身ともに疲弊した義淳は3年後の永享4年(1432年)にようやく管領の辞任を許され、翌永享5年(1433年)に病没する。

義淳の後嗣となった弟義郷やその子の義健も相次いで早世し、その間に勢力を伸ばした細川氏や畠山氏に押され、武衛家は大きく後退してしまう。細川氏が畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に分国を有すのに対して、武衛家の分国は尾張・越前といった京都から遠い場所に分散していた上、当主は京都に滞在していることが多かったため、支配は守護代に委任せざるをえなかった。このため次第に分国の実権は越前守護代甲斐氏・朝倉氏や尾張守護代織田氏らの重臣らに牛耳られるようになっていった。

この間、6代将軍義教の時代(永享年間)に御一家制度が整備されたとされる。「御一家」は足利一門の中でも家格の高い吉良氏・石橋氏・渋川氏(京都家)の三氏を三管領家(三職)と同格に遇し(一説に吉良氏は三職に優越するという)、かつ後世には足利将軍家断絶の際にはその継承権を持っていたとの一種の伝承がささやかれた家格であった。三氏のうち、石橋氏は足利尾張家の分家筋、渋川氏も弟筋の同族なので、武衛家の家格も御一家相当の高さがあり、実際に室町殿の書札礼を見る限り、吉良氏はもちろんのこと堀越公方家などの将軍連枝と同じ書札礼(「状如件」の書止文言)を適用され、前述の通り同時代の史料のほとんどで「斯波」の名字は現れず「武衛」または「勘解由小路武衛」と記されるなど(なお吉良氏は「吉良」と名字で記述される)、戦国後期に至るまで室町幕府体制下では別格の扱いであった[7]。それにもかかわらず三職に留められたのは、政治的に非力な御一家と異なって勢力の大きい鎌倉公方足利氏と武衛家を将軍家継承の可能性から排除するためであったとも考えられる[8]。

また、鎌倉公方や管領畠山氏・細川氏を含む諸侯が将軍から偏諱を与えられる場合、通常は諱の下の一字を賜るのであるが、武衛家の場合は御一家と同様に将軍家代々の通字である「義」字を賜る[9][注釈 3]のを慣例としており、周囲からも「将軍の家臣」では無く「将軍の一族[10]」と見られていたと思われる。また外国使節も武衛家をして「王の次人[11]」と表現しており、これらを見ても武衛家が御一家と同等以上の高い待遇を受けていたことを示している。

義健没後、一門である大野斯波家からの養子義敏と、同族渋川氏出身の義廉とが家督を巡って争った(武衛騒動)。この争いや将軍家・畠山氏の家督相続が原因となって応仁元年(1467年)の応仁の乱が起きる。義廉は西幕府の管領として西軍の主力となった。一方東軍に属した義敏も越前に下ってその一円支配を目指したが、越前守護代の朝倉氏に守護職を奪われ、また遠江も駿河守護今川氏に侵食され、尾張で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴されて存続するのみとなった。

なお、義廉の子義俊は、将軍家連枝(もしくは越前に在国した斯波一族)と伝わる鞍谷公方家(今立斯波家)を継ぎ、形式的な越前国主として朝倉氏に推戴された(朝倉氏滅亡まで鞍谷家は続く)。

尾張織田氏の台頭と武衛家の没落 編集
尾張のみを残すところとなった武衛家であるが、乱後にすぐさま守護代織田氏の傀儡(かいらい)となったわけではなく、斯波義敏の子義寛が9代将軍足利義尚による六角高頼征伐へ織田氏(応仁の乱で大和守家・伊勢守家の2つに分裂していた)を従えて参陣しているように、武衛家は依然として守護代権力に対して優越した存在であった。

義寛の子義達の頃にも、遠江奪還のための出陣を繰り返すなど、尾張守護の実態は保っていた。義達は、対立した守護代織田達定(大和守家)を合戦で討ちとるなどして織田氏の勢力を抑え、あるいは尾張を中心とした戦国大名へと成長する可能性もあった。しかし、今川氏親に敗れて遠江奪還に失敗し、義達の幼少の子義統に家督を譲った。義達は通説では大永元年(1521年)に没したとされているが、実際にはそれから10年以上後にあたる天文2年(1533年)には義敦と改名した義達が尾張守護に在任しており[12]、近年の研究ではそれから48年後の永禄12年(1569年)まで健在であったとする説が有力になっている。これが事実だとすれば、義達(義敦)はその後の武衛家の没落はおろか、因縁の相手であった今川氏の崩壊(駿河侵攻)をも目の当たりにしたことになる[3]。

義統が当主になると、武衛家は急速に衰え、その一方で大和守家の重臣織田信秀が頭角を現し、守護や守護代の勢力をしのぐようになる。天文23年(1554年)に守護義統が守護代織田信友に殺され、義統の嫡子義銀は織田信秀の跡を継いだ信長を頼って落ち延びた。信長にとって信友(大和守家)は本家・主君筋だが、信長は守護殺害の仇討を名分に信友を討ち取った。信長は織田伊勢守家や織田一族も倒し尾張一国をほぼ平定した。

信長は外交上の配慮から、斯波義銀を尾張国主・清洲城主に据えて隠居する形をとって隣国三河の吉良氏との同盟を推進したが、義銀が吉良義昭と会見する折、両者が席次をめぐって対立を起こした。前述のように武衛家は将軍家と同格の家柄を誇る名門中の名門であった。対する吉良氏も「御所(足利将軍家)絶えれば吉良が継ぐ」と伝えられ、鎌倉以来、足利本家の当主が幼少の折は当主を代行するなど、その家柄は斯波氏に劣ることはないと主張した。このときの同盟は不調となったものの、永禄4年(1561年)に義銀や吉良義昭、それに尾張国内にあった将軍家御一家の石橋氏は結束し、駿河の今川氏と通じて信長打倒を画策したものの発覚して追放され、尾張守護としての武衛家は滅亡した。

その後義銀は信長と和解して仕え、その際津川義近と改名し、信長没後は豊臣秀吉に仕え、子孫は松山藩[要曖昧さ回避]士や熊本藩士として存続する。また、義銀の子とされる義忠は津田氏を称して加賀藩に仕え1万石を領した。津田氏は代々加賀藩の家老職を勤め、維新後に津田正邦が斯波姓に復して男爵に叙された。

義銀の次弟は毛利秀頼[注釈 4]として信長に仕え、三弟は津川義冬(雄光)として信長の次男・信雄に仕えた。しかし、いずれも後に改易され、近世大名として武衛家が残存することは出来なかった。

武衛家分家
大野斯波家
高経の五男・義種が、兄・義将の守護国越前において大野郡を任された(大野郡代)ことに始まる家。歴代当主はおおむね民部少輔から修理大夫に任官したため、別に修理家・民部家と呼ばれることもある。武衛家が上屋形と称されたことに対して、大野家は下屋形と称された。

代々の加賀守護家となれる機会があったが、2代満種が将軍義持の勘気を被ったために没落し、本家である武衛家(越前守護)のもとで大野郡を任された。ただし武衛家一族であることから、国持衆の家格に列し、将軍からの偏諱を賜る[注釈 5]など事実上の分郡守護の待遇と権威を有した。義淳没後、若年の当主が続いた武衛家の家政に守護代甲斐氏と共に深く関与した。

初代の義種は小侍所頭人、侍所頭人に任じられるなど幕府の中枢で活躍し、若狭、加賀の各守護にも補任される有力大名であったが、義種の後を継いだ満種が応永21年(1414年)に義持の怒りを買って高野山に蟄居(ちっきょ)させられると、加賀守護の座を失った。満種の子持種は本家の後見人を務めたが、同じく後見人で越前守護代の甲斐常治と対立を重ね、やがて武衛家の後嗣として持種の子義敏が入り常治との対立を引き継ぎ、長禄合戦へと発展した。大野斯波家は義敏の弟である義孝が継承し、その後も義縁(よしより)、義信(よしのぶ)と続いた。義孝は甥で武衛家当主の義寛(義敏の嫡子)の武将として活躍したことで知られる。

また大野斯波家からは満種の子・氏種(うじたね)から奥田氏が分かれ、戦国期に堀氏を称するようになり江戸時代に越後村松藩主となったとされる(堀家伝)。また後に阿波徳島藩主となる蜂須賀氏は持種の子政種(正種とも)の後裔ともいわれる。

末野斯波家
高経の次男・氏経の系統とされる。『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の内の「末野殿」に相当する家と考えられる。幕府の外様衆の家格に列し、後に義敏の子である義延(よしのぶ/よしなが)が継承したといわれる。

今立斯波家 編集
系統不詳ではあるが、越前国今立郡鞍谷に居し、大野斯波家と同じく越前国内の分郡守護的立場にあったとされる。『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の筆頭格「越前斯波殿」に相当する家と考えられる。『奥州斯波系図』では高水寺斯波家より郷長が入嗣したと伝わり、寛正から大永年間には政綿(活動期間が長期にわたるため、同名の2代説あり)の活動が見られる(『大滝神社文書』・『上杉家文書』等)。一説に将軍家連枝と伝わる鞍谷公方はこの今立斯波家と同一であったといわれる。

五条斯波家 編集
系統不詳。『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の内の「五条殿」に相当する家と考えられる。高水寺斯波家関係史料である『稗貫状』にその名が見えるため、奥州斯波氏と何らかの関係があったものと思われる。

千福斯波家
大野満理の系統か。越前国南仲条郡千福に居し、『奥州余目記録』に記される越前斯波四家の内の「仙北殿」に相当する家と考えられる。義敏の子である寛元(ひろもと/とおもと)が継承し、朝倉氏との合戦で討死したといわれる。その後は徐々に朝倉氏の傘下に入り、天正期に千福式部大輔・同遠江守親子の活動が見られる。

奥州斯波氏
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