2020年01月13日
石谷光政
石谷光政(いしがいみつまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
奉公衆。
出家して空然(くうねん)と号し、
石谷空然の名でも知られる。
時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
生年不詳
死没
没年不詳
改名
石谷光政→石谷空然
別名
通称:兵部大輔、法名:空然
官位
兵部大輔
幕府
室町幕府
主君
足利義輝→長宗我部元親
氏族
石谷氏
妻
正室:不明
継室:蜷川親順の娘
子
女(石谷頼辰室)
石谷氏(長宗我部元親室)
養子:頼辰
略歴
石谷氏は美濃国方県郡石谷村(現岐阜市石谷)を本貫地とし、土岐氏の支流で清和源氏の流れを汲む。
石谷氏はもともと室町将軍家に代々仕えた奉公衆の1つであるが、光政は実は室町幕府第13代将軍足利義輝の庶子であるともされ、親政を目指した足利義輝の側近として活躍した。ただし光政は義輝とほぼ同年代かむしろ年長と考えられ、子とするには少々無理があるのでこれは誤伝であろう。
光政は男子に恵まれなかったので、同族の土岐氏支流の明智氏の縁者である斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として迎えて、長女を娶らせた。永禄6年(1563年) には蜷川親長の仲介で、次女を土佐国の戦国大名・長宗我部元親に嫁がせた。
永禄8年(1565年)、義輝が松永久秀・三好三人衆に暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。以後、娘婿である元親に仕え、実家の斎藤氏を頼って明智光秀の家臣となった頼辰を介して、織田信長との取次役を務めた。
没年も不明だが、『石谷家文書』にある天正12年(1584年)付けの細川信良の書状が空然・頼辰の連名の宛名であることから、この頃までは生存していたようだ。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
奉公衆。
出家して空然(くうねん)と号し、
石谷空然の名でも知られる。
時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
生年不詳
死没
没年不詳
改名
石谷光政→石谷空然
別名
通称:兵部大輔、法名:空然
官位
兵部大輔
幕府
室町幕府
主君
足利義輝→長宗我部元親
氏族
石谷氏
妻
正室:不明
継室:蜷川親順の娘
子
女(石谷頼辰室)
石谷氏(長宗我部元親室)
養子:頼辰
略歴
石谷氏は美濃国方県郡石谷村(現岐阜市石谷)を本貫地とし、土岐氏の支流で清和源氏の流れを汲む。
石谷氏はもともと室町将軍家に代々仕えた奉公衆の1つであるが、光政は実は室町幕府第13代将軍足利義輝の庶子であるともされ、親政を目指した足利義輝の側近として活躍した。ただし光政は義輝とほぼ同年代かむしろ年長と考えられ、子とするには少々無理があるのでこれは誤伝であろう。
光政は男子に恵まれなかったので、同族の土岐氏支流の明智氏の縁者である斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として迎えて、長女を娶らせた。永禄6年(1563年) には蜷川親長の仲介で、次女を土佐国の戦国大名・長宗我部元親に嫁がせた。
永禄8年(1565年)、義輝が松永久秀・三好三人衆に暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。以後、娘婿である元親に仕え、実家の斎藤氏を頼って明智光秀の家臣となった頼辰を介して、織田信長との取次役を務めた。
没年も不明だが、『石谷家文書』にある天正12年(1584年)付けの細川信良の書状が空然・頼辰の連名の宛名であることから、この頃までは生存していたようだ。
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