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2020年01月15日

吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。

清和源氏足利氏支族の吉良氏(長氏流)。三河吉良氏。
清和源氏足利氏支族の吉良氏(義継流)。奥州(武蔵)吉良氏。
清和源氏為義流の吉良氏。土佐吉良氏。

吉良氏(清和源氏足利流)
kirasi.png
家紋 足利二つ引


本姓
清和源氏(河内源氏)
家祖
吉良長氏(三河吉良氏)
吉良義継(奥州吉良氏)
種別
武家
士族
出身地
三河国幡豆郡吉良荘
主な根拠地
三河国
武蔵国
著名な人物
吉良貞義
吉良頼康
吉良義央
上杉綱憲
支流、分家
米沢上杉氏(武家→華族)
今川氏(武家)
蒔田氏(武家)
荒川氏(武家)など

本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ足利氏の一門である。足利義氏の庶長子・吉良長氏およびその弟・吉良義継より出る。兄・長氏の家系は三河吉良氏となり、弟・義継の家系を奥州吉良氏という。

吉良氏は足利一門において名門とされ、分家の今川氏とともに足利将軍家の連枝としての家格を有した。その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで庶民に言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には足利宗家の家督を継承することが許されていたという説が巷(ちまた)にはある。

ただ、三河でも奥州でも家格の高さに武力が伴わず、家運は低迷、大名としての存続は断たれた。しかし両系統は江戸時代に家名を繋いでいる。

三河吉良氏
鎌倉時代、足利義氏が三河国幡豆郡吉良荘(現・愛知県西尾市吉良町)の地頭職を得、これを庶長子・長氏に譲ったことに始まる[1]。吉良荘の吉良の語源は、荘園内の八ツ面山(やつおもてやま)に雲母(大和言葉で「きらら」)の鉱山を古くから有したためにつけられたものと言われている[1]。当時の吉良荘は古矢作川の東西にも広がっていたため、川の東西をそれぞれ「東条」、「西条」(城は現・西尾市)と区分して呼んでいた。長氏は西条の西尾城を本拠としており、弟の義継(城は現・西尾市吉良町駮馬〈まだらめ〉城山)が東条を本拠としたため、長氏の系統は西条吉良氏と呼ばれる。義継の系統は前期東条吉良氏と呼ばれ、後に奥州に移っている。

承久の乱以降、足利氏は三河守護だったこともあり三河国内に多くの所領を得たが、長氏は三河国に滞在してその中でも総指揮・監督権を委ねられる立場にあり、足利宗家から深い信頼を受けていたことがわかる。 長氏の子吉良満氏は霜月騒動で安達泰盛にくみし、北条氏による討伐を受けて戦死。その子吉良貞義は元弘3年(1333年)、後醍醐天皇方の勢力討滅の命を帯びて上洛途上の足利高氏が三河国に滞在した際、貞義は「天皇について鎌倉幕府打倒のために立ち上がるべきである」と強硬に進言した。これが最終的な引き鉄となって高氏は六波羅探題攻撃に踏み切り、鎌倉幕府崩壊劇の嚆矢(こうし)となった。

南北朝時代 編集
南北朝時代から室町時代には、貞義の子吉良満義は観応の擾乱で足利直義に味方し、嫡男満貞とともに各地を転戦、一時的に南朝にも帰順した後、最終的に室町幕府に降る。

室町時代
吉良氏初代・長氏の隠居所として築かれた館は「丸山御所」と称された。渋川氏・石橋氏の両家とともに「御一家」と称されて別格の扱いを受けた。 しかし、吉良氏当主は京都にあって将軍家一門としての格式を有し、評定衆の一人に代々任じられる家として幕閣で活躍した。とくに足利将軍家一門の吉良氏は式評定衆として他氏出身の出世評定衆よりも重んじられた。しかし代々同じ国の守護を継ぐことはなく、守護領国を形成することはなかった。

満義・満貞父子が本拠地の吉良荘を留守にしている間に、満義の四男吉良尊義が吉良荘の東条を押領し、東条吉良氏(後期東条吉良氏)として自立するという事件が起きる。以後、尊義の東条吉良氏と、西条に勢力を限定された満貞の西条吉良氏とは、互いに正統性を主張しあって譲らず、応仁の乱においては西条家の吉良義真が東軍、東条家の吉良義藤が西軍にそれぞれ属して戦うなど、両者の子孫は約1世紀にわたって抗争を繰り広げた。

戦国時代
戦国時代の三河吉良氏は西条吉良の吉良義信が永正5年(1508年)の足利義稙の将軍復帰に功績があったとして三河守護に任じられたとする説[2]があり、また、安祥松平家の松平信忠に偏諱を授けたとする説もある。

だが、全体としては勢力が振るわなかった上に、西条吉良氏と東条吉良氏に分裂した内部抗争が収束しなかったため、家運を一段と低迷させていた。その間に、庶流である駿河守護今川氏からの圧迫を受けたのである。西条吉良の吉良義尭の頃であり、遠江国の拠点である引間荘を奪われている。また、三河でも吉良氏から偏諱を受ける立場であったとされる安祥松平家が台頭する。なお、松平清康は東条松平の吉良持清の偏諱を、松平広忠は持清の息子である吉良持広の偏諱を受けたとする説がある。

ようやく同族抗争の愚を悟った東条・西条両家は、東条吉良の吉良持広が西条吉良の吉良義安を養嗣子にするという形で和議を成立させ、長年の抗争に終止符を打った。享禄・天文初年間のことである。義安は今川氏への対抗上、同じく今川氏と抗争中にあった尾張国の織田氏に加担し、防衛体制を整えていく。なお、今川氏の系譜から今川氏親の長女が吉良義尭の正室であったことが判明している他、今川氏の血を引いていない側室の子である義安が東条吉良だけでなく西条吉良の家督をも望んで西条吉良の重臣と争った形跡があり、今川氏に近い重臣に対抗するために斯波氏や織田氏と結んだ可能性も指摘されている。

しかし、長年の抗争で衰退させた家運の回復までには至らず、天文18年(1549年)に今川義元の猛攻に敗退する。捕らえられた義安の身柄は駿河に抑留された。西条吉良氏を継いでいた義安の弟吉良義昭は、今川氏に東条吉良氏もあわせて継ぐよう命じられ、東西の吉良氏はこうして同一化した。しかし今川氏への隷属性の高いものであった。ただし、小林輝久彦は天文23年(1554年)には一旦許されて義安が両吉良氏を継いだものの、弘治元年(1555年)に再度今川氏に叛旗を翻した結果、義昭が継いだものとする説を出している。

なお、当時の今川氏にとっては吉良氏の存在は悩みの種でもあった。天文18年9月5日付で今川義元の重臣である太原雪斎が吉良義安に充てた書状は、義安を「御屋形様」と呼んだ上に宛先も義安本人ではなく「西条諸老」すなわち義安の家老宛になっている。現実の世界では今川氏は駿遠三の3か国を支配して吉良氏を従属下に置いているにも関わらず、書札礼の世界では雪斎は義安の陪臣(家来の家来)として振る舞わなければならなかった。

ところが、桶狭間の戦いで義元が討ち取られ、三河国の支配を目指す松平家康(のちの徳川家康)と義昭は対立することになる。義昭は善明堤の戦いや藤波畷の戦いを経て、家康に降伏する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が勃発すると一向一揆方に加担して、再び家康と戦った。しかし義昭は破れ、三河国を出奔し、家康は西条吉良家の家督も義安に相続させた。

義昭は織田信長の周旋により、尾張守護の斯波氏およびその一門の石橋氏と同盟を結ぶまでに漕ぎ着けたが、斯波義銀と席次を巡る争いを起こしている。斯波氏もまた、足利将軍家一門中将軍家や吉良氏に並ぶ名族であった。

江戸時代前期
江戸時代には、義安の子義定が松平清康の妹を母としていた関係で徳川氏に取り立てられ、その子義弥の代に至り旧吉良荘内で3,000石を領して、高家の家格を付与された。これ以降の吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続する。

義弥の次は吉良義冬が相続した。

義冬の長男吉良義央は、赤穂事件(忠臣蔵)で著名である。義央は、元禄14年(1701年)、儀典の指導に関して勅使饗応役の播磨赤穂藩主浅野長矩との間に確執を生じ、長矩から殿中刃傷を受け、長矩の切腹後、元禄15年(1702年)に大石内蔵助以下浅野の遺臣らによる本所吉良邸への討ち入りを受けて討ち取られた。元禄16年(1703年)には義央の孫にあたる当主吉良義周が改易された。

江戸時代後期
義冬の次男義叔(義央の弟)は東条姓(東条氏は室町時代の吉良氏別称)を名乗って、子孫も旗本として将軍家に仕えていたが、享保17年(1732年)、義叔の孫に当たる義孚が、義央の家系が絶えていることを理由に、東条家から吉良家への復姓を幕府に願い出て許された。

ただしこの再興吉良家は並みの旗本としてであり、高家の格式は与えられなかった。以後、吉良家は明治維新まで旗本として存続する。

歴代
吉良長氏
吉良満氏
吉良貞義
吉良満義
(西条吉良)(東条吉良)

吉良満貞  吉良尊義
吉良俊氏  吉良朝氏
吉良義尚  吉良持長
吉良義真  吉良持助
吉良義信  吉良義藤
吉良義元  吉良持清
吉良義尭  吉良持広
吉良義郷  荒川義広
吉良義安
吉良義昭
吉良義定
吉良義弥
吉良義冬
吉良義央
吉良義周

奥州(武蔵)吉良氏
本姓は源氏。三河吉良氏の同系。

足利義氏の四男・吉良義継が、兄・長氏と同じく三河国吉良荘を本拠としたことにはじまる。長氏が同荘西条に拠ったのに対して義継は東条を領し、前期東条吉良氏とも呼ばれた。東条の城は東条城で、場所は現在の西尾市吉良町駮馬(まだらめ)城山である。ただし尊卑分脈では義継の子吉良経氏が「(西条吉良の)吉良満氏の子となった」「号吉良(吉良を号す)」と記述されている。

今川氏

今川氏(いまがわし)
日本の武家。
本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。

kirasi.png
家紋 足利二つ引両

本姓
清和源氏義家流
家祖
今川国氏
種別
武家
士族
出身地
三河国幡豆郡今川荘
主な根拠地
駿河国
遠江国
著名な人物
今川了俊
今川範忠
今川義忠
今川氏親
今川義元
今川氏真
支流、分家
品川氏(武家)
堀越氏・瀬名氏(武家)
蒲原氏(武家)

概要
前述のとおり、今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる。「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたように、足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領や侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めた。軍功により副将軍の称号をゆるされた今川範政の子範忠は永享の乱の戦功によって室町将軍家から彼とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けたため日本各地で栄えていた今川姓も駿河守護家のみとなったと伝えられる。しかし、範忠没後に一時期宗家の地位を争う立場にあった小鹿氏にはその後も万一の際の家督継承の有資格者として今川姓を許されていたとする研究もある[1]。

駿河今川家:駿河守護職を代々継承した嫡流。本稿で記述。
遠江今川家:1.の分家で、遠江に所領を与えられた今川貞世(了俊)を祖とする一族。瀬名氏を参照。
肥前今川家:同じく1.の分家で、肥前に所領を与えられた今川仲秋を祖とする一族。持永氏を参照。

家伝
鎌倉時代
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今川氏発祥地碑(愛知県西尾市)

足利義氏の庶長子として吉良家を興した吉良長氏の2男である国氏が、吉良氏の所領から三河国幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる(あるいは国氏は長氏の甥で、養子になったとも言う)。現在、西尾市今川町には愛知県によって建てられた今川氏発祥地の石碑がある。

吉良氏・今川氏の祖であった長氏は、足利家惣領を継いだ泰氏の兄にあたることから、吉良氏に次ぐ足利一門として重きをなし、渋川氏・石橋氏とともに「御一家」と称されて別格の扱いを受けたことや、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という序列観が人々の間に定着したのも、こうした背景があってのことであった。しかし現実には、足利将軍家には多くの別家が多くあり、吉良氏がそうした家系を押しのけ足利本家を継げる可能性は限りなく低かった。

南北朝時代から室町時代
鎌倉幕府滅亡から建武の新政を経る頃には、国氏の孫(基氏の長男)である今川頼国が四人の弟[注釈 1]や子達を率いて足利尊氏の北朝方に属し、各地で戦功を挙げた。頼国は中先代の乱の際の小夜中山合戦にて北条時行方の名越邦時を討ち取る功績を挙げたが、相模川の合戦で三弟の頼周と共に戦死、二弟の範満も小手指原の戦いで戦死してしまう。これらの功績により、頼国の子頼貞は丹後・但馬・因幡の守護に任ぜられた。また頼国の末弟で、尊氏近くに仕えていた範国も駿河・遠江の守護に任じられた。 観応の擾乱に際して、範国の嫡男範氏は尊氏方に属して功を立て、駿河守護職を継承。範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲した。駿河守護である今川氏は境を接する関東公方領を監視する役割を将軍家から負わされていたともいう。

今川氏の幾人かは室町幕府の侍所の長官にも任命されるなど、斯波氏・畠山氏・細川氏・一色氏・山名氏・赤松氏・京極氏・土岐氏らとともに幕府の宿老の一人もつとめた。

また、範氏の弟で肥前守護の貞世(了俊)は管領の細川頼之により九州探題に任じられると、南朝勢力の強かった九州を平定する事に成功したが、足利義満からは了俊の勢力や名声の高まりを快く思われていなかった様である。やがて大内義弘が挙兵する応永の乱が勃発するが、一時これに加担する動きを見せた鎌倉公方の足利氏満を裏で焚き付けたのが了俊である、との疑念を掛けられた。討伐の対象になるところを上杉憲定たちの助命活動が実を結び、義満への上洛謝罪で赦された。しかし中央政界から追われたれた上に、遠江半国の守護となってしまった(残りの半国の守護は弟の今川仲秋)。その子孫は守護職を斯波氏に譲った後は駿河に土着し駿河今川家に仕えた。

戦国時代
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今川義元の馬印に描かれた赤鳥紋「今川赤鳥」

戦国時代の15世紀末に至り、伯父伊勢盛時(北条早雲)の助けで家督争いに勝利した氏親は、亡父義忠の代に頓挫していた遠江への再侵攻を試みた。その結果、敵対する斯波氏を排することに成功して遠江守護職を獲得する。また、甲斐国の乱国状態に介入し、甲斐西郡の国衆大井氏を従属させている。領国統治においては分国法「今川仮名目録」を定めて、今川氏を戦国大名に発展させた。駿府には冷泉為和など戦乱を避けた公家が下向し、文化的にも円熟した時代を迎えるようになった。

氏親没後は正室寿桂尼が嫡男・氏輝を後見した。天文5年(1536年)3月17日に氏輝・彦五郎が死去すると、氏輝の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳の間で家督争い「花倉の乱」が勃発する。花倉の乱は栴岳承芳が制し、今川義元と改名して今川家の当主となる。義元期にはそれまで敵対していた甲斐の武田氏と和睦して甲駿同盟が結ばれ、これにより今川氏と相模の後北条氏との関係を悪化させ、「河東の乱」を引き起こす。河東の乱は武田氏の当主・武田晴信(信玄)の仲介もあり今川・後北条氏間では同盟が結ばれ、さらに武田氏と後北条氏の間でも甲相同盟が結ばれており、三者の関係は、甲相駿三国同盟に発展する。

義元は三国同盟を背景に三河進出に力を注ぎ、弱体化した三河国の松平氏を従属させたほか、同じく尾張の織田氏と「安城合戦」「小豆坂の戦い」などを戦い、三河から織田氏を締め出すことに成功した。松平氏の当主である松平元康(徳川家康)は幕府の奉公衆で駿河今川氏の重臣でもあった今川関口家から正室を迎えた。こうして、駿河・遠江・三河の3か国を支配する上に尾張の一部を有するが、1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間の戦いで織田信長に本陣を襲撃され、敗死した。

義元の跡を継いだ氏真の代には、三河岡崎城で松平元康が自立するなど支配領国の動揺を招き、臣従国人たちの今川離反を誘発する。氏真が自ら出陣した造反軍征伐戦では、三河宝飯郡において松平軍に大敗する。やがて吉田城を失陥し、三河の支配権も喪失する。

甲斐の武田氏は三国同盟を背景に越後国の長尾景虎(上杉謙信)と川中島の戦いを繰り広げていたが、川中島の戦いは永禄4年(1561年)の契機に終息する。今川氏真の妹である嶺松院は武田信玄の嫡男・義信に嫁ぎ、この婚姻により甲駿同盟が成立していたが、武田家では永禄8年(1565年)に義信の謀反が発覚し幽閉され、永禄10年(1567年)10月19日に死去する義信事件が発生。嶺松院も駿府へ送還され甲駿関係は険悪化。さらに武田家では信玄四男の諏訪勝頼(武田勝頼)が世子となり、勝頼の室に織田信長の養女を迎え関係を持つようになるなど、次第に今川との敵対的姿勢を見せるようになる。

永禄11年(1568年)末に武田信玄は徳川氏と同盟し、今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻に対して後北条氏は今川に加勢し、これにより甲相同盟も破綻した。今川氏は数年の間に領国駿河と三河を武田氏と徳川氏(松平氏改め)によって東西から瞬く間に切り獲られた[注釈 2]。1568年(永禄11年)、遠江に追い立てられた氏真は、最後の拠点掛川城を徳川軍の石川家成に明け渡し、掛川城主の朝比奈泰朝等と共に北条氏を頼って小田原に退去。戦国大名としての今川氏は桶狭間の戦いから8年で滅亡し、駿河は武田領国化される。

江戸時代
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観泉寺(東京都杉並区)
氏真は曲折を経て徳川家康の庇護を受けるようになり、近江国野洲郡(現・滋賀県野洲市)に500石の知行地が安堵された。氏真の嫡孫・直房は江戸幕府に出仕して高家職(奥高家)に就き、秀忠・家光・家綱の三代にわたって朝廷との交渉などに奔走した。1645年(正保2年)、京都への使者を務めて家康への「東照宮」号宣下を得た功により、家光から武蔵国多摩郡井草村(現・東京都杉並区)など500石の知行を加増され、家禄は都合1000石となっている。直房の官位は今川家歴代で最も高い左近衛少将まで昇り、子孫からは中興の祖と仰がれた。

高家旗本として存続した江戸時代の今川家では、11人の当主のうち、直房・氏睦・義泰・義彰・義用・範叙の6人が高家職に就いている。幕末の当主・範叙は、高家出身者として唯一若年寄に就任し、官軍との講和・江戸城の開城に際して尽力した。しかし明治維新後は、他の士族と同じく家禄を失って没落したうえ、一人息子である淑人にも先立たれた。1887年(明治20年)、範叙の死によって今川氏は絶家した。

江戸時代における今川氏の菩提寺は、杉並区今川の宝珠山観泉寺(曹洞宗)、杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)である。観泉寺にある今川氏累代の墓は東京都指定旧跡となっている。なお、観泉寺の住所である「今川」は、この地が今川家の知行地だったことにちなんでいる。

なお、氏真の次男の高久も徳川秀忠に出仕し、品川氏を称して[注釈 3]本家とともに高家に列した。

系譜
源義家
源義国
足利義康
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
今川国氏
今川基氏
今川範国
今川範氏
(駿河家)
今川泰範
今川範忠
今川義忠
今川氏親
今川義元
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