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2019年12月24日

秋山信友

秋山信友(あきやまのぶとも)
秋山 虎繁(あきやま とらしげ)
Screenshot_20191224-232648~2.png


戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。

武田二十四将

武田二十四将
秋山信友

江村親政

江村親政(えむらちかまさ)生没年不詳

吉田重俊の次男吉田親家を養子とした。 

江村宗貞

江村宗貞(えむらむねさだ)生没年不詳
長宗我部氏初代能俊の三男で江村郷に分知され江村氏を称した。
小篭土居(こごめどい)は、
鎌倉時代江村宗貞によって築かれた。
戦国時代には吉田重俊の次男親家が江村親政の養子となった。 
親家は、長宗我部元親に仕え「小備後」と称され数々の戦功を挙げている。

江村氏

江村氏(土佐国)
小篭土居 - 長宗我部初代・能俊の三男・宗貞が分家して江村氏を称す
長宗我部宗貞は、
長宗我部氏初代能俊の三男で江村郷に分知され江村氏を称した。 
戦国時代には吉田重俊の次男吉田親家が江村親政の養子となった。 
これが江村親家である。
長宗我部元親に仕え「小備後」と称され数々の戦功を挙げている。

長宗我部氏の始祖・秦能俊が信濃から土佐国長岡郡宗部郷の地頭となり長宗我部氏を称する。

その 三男・宗貞が分家して江村氏を称したとも、又・江村氏の養子になったとも伝わるが詳細は不明ながです。

江村宗貞(えむらむねさだ)
江村親政(えむらちかまさ)
江村親家(えむらちかいえ)
江村親俊(えむら ちかとし)

江村親俊

江村 親俊(えむら ちかとし、生没年未詳)
父は江村親家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。通称は孫左衛門。

早くから長宗我部元親に仕え、天正10年(1582年)には阿波一宮城の守備を任されている。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐が始まると、谷忠澄と協力して一宮城を守ったが、豊臣秀長の攻撃の前に敗れて開城した。主家の降伏後、元親の3男・津野親忠が豊臣秀吉への人質として赴くとき、親忠に従って伏見に赴いた。秀吉の朝鮮出兵でも渡海し、晋州城の戦いで武功を挙げ、1500石の知行を与えられている。

森孝頼

森 孝頼(もり たかより)(生没年不詳)
吉田 孝頼(よしだたかより)

戦国時代の土佐国の国人である。

時代
戦国時代

主君
長宗我部元親
氏族
森氏
父母
父 森頼実

吉田重俊の娘

頼実の子。先祖は尾張から近江、その後阿波を経て土佐に来たという。その際、土佐郡長磯村で悪さをしていた猿を退治し村名を森と変えて領主になったという。阿波水軍を率いた森氏とは同族との説もある(阿波森氏側の系図にはそのような記述はない)。
 その後、森氏は勢力を伸ばし土佐郡潮江も手に入れ土佐の有力国人の一人となるが、
1544年に対立する本山清茂によって当主・頼実は城を落とされ討ち死にする(頼実は阿波に逃れたともいう。また落城の時期も諸説有り)。
 孝頼は長宗我部国親を頼って落ち延び、長ずると吉田重俊の娘と娶ったといわれる(これには疑問視する説もある)。長宗我部氏が本山氏と対立すると国親・元親に従い、やがて森と潮江の領地を回復した。
 その後の孝頼の動向は不明だが、一族の者が元親に従って各地を転戦したようである。


孝頼はかつて土佐郡森郷や潮江村の地域を治めていた豪族「森頼実(もりよしざね)」の嫡男として生まれました。
1544年、父が本山氏「本山宗茂(もとやまむねしげ)」によって滅ぼされると、まだ幼少であった孝頼は岡豊に落ち延びて「長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)」の庇護を受けました。
その後は長宗我部氏の下で成長し、重臣である「吉田重俊(よしだしげとし)」の娘を娶りました。
1560年、長浜の戦いにおいて長宗我部氏は宿敵本山氏を撃破します。
長浜より岡豊へと帰参する最中に、潮江城(高知市潮江筆山)を攻めます。

しかし、すでに潮江城に本山軍は居なかったので、無傷で潮江城を手に入れます。
孝頼はその後も本山氏を攻める際の主力として活躍します。
その温床として、孝頼は旧領である森郷を貰い受け、潮江城主となりました。
その後は明確な資料がありませんが、元親の四国統一に貢献した働きをしたと考えられます。

孝頼は本山攻めにおいて大いに働きました。
旧領が本山氏の本拠地に隣接していた為、森氏の旧臣も沢山残っていました。その者らと内応して、
本山氏を混乱させます。
また、潮江天満宮の改修も行ったとされています。
父の仇である本山氏を長宗我部の力を借りて果たした形になりました。無事旧領を手に入れることも出来た事はよかったと思います。


土佐国(現高知県)土佐郡北部の森郷と土佐郡南部の潮江村一帯を所領とした土豪・森氏の第5代当主。父・頼実が本山氏の攻撃により居城森城を奪われ敗死すると、幼少の身だった孝頼は密かに城を脱出し、岡豊に落ち延びる。

その後、岡豊の長宗我部国親のもとに身を寄せ、その庇護を受けるが、元服後は国親の跡を継いだ長宗我部元親の家臣となり対本山戦で功を上げる。そして、元親よりもともと森氏の支城であった潮江城を与えられ城主となり、元親が本山氏の居城本山城攻略に着手した際は命を受け、森郷に潜入、森氏の旧臣らを内応し、本山城陥落の足がかりを作った。本山氏降伏後は元親より旧領森郷を与えられ、孝頼は没落した森氏の再興に成功した。

森城主となった孝頼は以後、長宗我部氏の傘下として四国統一戦に参陣、また潮江天満宮の改修なども手掛けた。

参考文献
戦国人名事典(新人物往来社/阿部猛・西村圭子編集)
日本城郭大系15巻香川・徳島・高知(新人物往来社/児玉幸多・坪井清足監修)
日本歴史地名大系40巻高知県の地名(平凡社/山本大監修)
夏草の賦(文春文庫/司馬遼太郎著)

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