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2019年12月14日

すがたたみ

菅畳(すがたたみ)
スゲで編んだ、むしろのような敷物。
「―いやさや敷きて」

畳の歴史

畳の歴史(たたみのれきし)

畳の語源と起源
「畳」は「たたむ」ことを意味し、折り返して重ねる意味でもあって、 たためるもの、重ねられるものから、敷物すべてを意味したものでもあり、これが畳の起こりである。

畳は日本固有の文化です

畳が使われるようになったのは、いつごろのことでしょうか。一般的には「古くからあった」と認識されているだけで、ほとんど知られていません。実際のところ、農耕民族だった日本人の祖先が生活圏の周囲にあった稲わらなどを利用して、少しでも快適な住まい方をすることに生活の知恵を発揮してきた結果として、畳が生み出されたことは容易に想像できることです。事実、年々進んでいる縄文時代から弥生時代にかけての遺跡発掘調査作業の家庭で住居に稲わらを敷き詰めていた形跡がいつくも発見されており、稲わらなどの資源を活用して敷物をつくり出していたことは明らかです。その後、畳としての最初の形は、稲わらなどの材質でムシロ・コモ・ツカナミなどの敷物類を生み出していたところに、大陸から絹織物などが伝わり、やがてそれらが巧みに組み合わされて、快適さ・実用性・装飾性・権威性などが加味されて、八重畳はじめ置き畳や敷物などに進化したのが始まりと考えられています。畳は、寝殿造りの建物では、板張りの上に置く形であったり、「ひとひらのたたみ」のように板張りのユカの上に敷きひろげて、就寝・くつろぎの寝具や座具、さらには調度具に用いられ、その後の書院造りの建物では、次第に寝具としての役割から離れて、部屋いっぱいに敷き詰められるようになりましたが、これは畳の進化によって、住まい構造が変わり、快適タタミライフを中心とした住まい方に変わってきたことを伺わせています。いいかえれば、畳はその時代の文化の基盤だったことになります。その意味で、フローリングを中心とした現代の住まい方は、いまから1000年あまり以前の平安時代に戻っていることになります。

縄文時代から弥生時代にかけて

古くは奈良時代や平安時代からさかのぼります。鎌倉時代から室町時代にかけては高貴な人や客人のもてなしのためのものでしたが、江戸時代には一般庶民に普及する住まいの床材でした。

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古事記にも登場しています

古事記の中に、菅畳、皮畳の記述があります。 日本書紀に「八重席薦(やえむしろこも)」の記載があります。 たたみという言葉は、こもとか絹とか萱を「たたむ」というところから生まれました。 貴族は何枚も重ねて敷いていたそうです。

長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、
日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。
長曽我部・長曾我部とも記される。


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ななつかたばみ
七つ酢漿草

本性 称・秦忌寸
家祖 長宗我部能俊
種別 武家
主な根拠地 土佐国長岡郡岡豊
      のち吾川郡浦戸



長宗我部氏歴代当主

第1代  長宗我部 能俊
第2代  長宗我部 俊宗
第3代  長宗我部 忠俊
第4代  長宗我部 重氏
第5代  長宗我部 氏幸
第6代  長宗我部 満幸
第7代  長宗我部 兼光
第8代  長宗我部 重俊
第9代  長宗我部 重高
第10代 長宗我部 重宗
第11代 長宗我部 信能
第12代 長宗我部 兼能
第13代 長宗我部 兼綱
第14代 長宗我部 能重
第15代 長宗我部 元親
長宗我部 文兼
長宗我部 元門
長宗我部 雄親
長宗我部 兼序
長宗我部 国親
長宗我部 元親
長宗我部 盛親
親典
與助
弥左衛門
久蔵
惣亟
弥右衛門
弥四郎
歡次
與助
與右衛門
重親
吉親
親衛
林馬
友猪
友親(現・当主)

江村氏
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