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2019年12月26日

物部氏

物部氏(もののべうじ)
日本の氏族のひとつ。
姓は連、後に朝臣。 

Screenshot_20191226-152912~2.png
氏神とする石上神宮
(奈良県天理市)

氏姓
物部連
のち物部朝臣
始祖
饒速日命
氏祖
物部十千根
種別
神別(天神)
著名な人物
物部麁鹿火
物部尾輿
物部守屋
後裔
石上朝臣
中原朝臣[1]
弓削氏
新家連
新家宿禰
高岳首
石見国造金子氏(社家・華族(男爵))
田部氏[2](社家)
厚東氏(武家)
曾禰氏(武家)
越智氏[3][4](武家)
勝氏[5](武家)
浅井氏[6][7][8](武家) など


特徴と歴史
大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる天孫族系の神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。

神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。既に雄略朝の頃には大連を輩出し、各地に国造を残すなど、有力な氏として活躍していたといされる。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなったとされる[9]。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。

物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。

蘇我氏との対立
宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った[10]。

稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

こうした物部氏(守屋宗家)の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降守屋宗家の物部氏は没落する。しかし、後に石上氏が朝廷内で復権を果たし、また全国の物部氏系の国造は何事もなく続いた。

天武朝
684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連の姓(かばね)から朝臣姓へ改めるものがあった。


石上氏
氏姓
石上朝臣
始祖
饒速日命
出自
物部朝臣
氏祖
石上麻呂
種別
神別(天神)
本貫
河内国哮峰
著名な人物
石上麻呂
石上宅嗣
後裔
石上神宮祠官家(社家)
上野長野氏(武家) など

686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上はもと物部弓削守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[11]。

石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。

石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[13]。

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。
藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。

Screenshot_20191225-202921~2.png
家紋
下り藤
藤原氏代表的な家紋
各、藤原氏によって異なる。

本姓
藤原朝臣
家祖
藤原房前
種別
神別(天神)
出身地
大和国
主な根拠地
大和国
山城国 ほか
著名な人物
藤原冬嗣
藤原良房
藤原基経
藤原時平
藤原敦忠
藤原道綱母
藤原伊尹
藤原義孝
藤原佐理
藤原行成
藤原公任
藤原実方
藤原道雅
藤原定頼
藤原家隆
藤原道長
藤原頼通
藤原基俊
藤原定方
藤原朝忠
藤原忠通
藤原定長
藤原敦頼
藤原清輔
藤原長方
伊勢
紫式部
殷富門院大輔 など
支流、分家
五摂関家(公家)
松殿流(公家)
閑院流(公家)
日野流(公家)
四条家(公家)
中御門流(公家)
勧修寺流(公家)
御子左流(公家)
魚名流(公家)
世尊寺流(公家)
花山院流(公家)
法性寺流(公家)
小野宮流(公家)
小一条流(公家)
水無瀬流(公家)
道綱流(公家)など

概要
藤原北家は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

その後奈良時代後期〜平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣に昇るが、桓武朝では永手の嫡男・家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家の、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。これが以後の、北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極める。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。

派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの武家氏族が藤原北家の末裔と称した。

藤原鎌足 - 藤原氏祖
藤原不比等 - 鎌足の次男
藤原房前 − 不比等の次男 藤原北家の祖
藤原真楯 - 房前の三男
藤原内麻呂 - 真楯の長男
藤原冬嗣 - 内麻呂の次男
藤原良房 - 冬嗣の次男
藤原基経 - 良房の養子(長良の三男)
藤原忠平 - 基経の四男
藤原師輔 - 忠平の次男
藤原兼家 - 師輔の三男
藤原道長 - 兼家の四男
藤原頼通 - 道長の長男
藤原師実 - 頼通の三男 花山院流祖
藤原師通 - 師実の長男
藤原忠実 - 師通の長男
藤原忠通 - 忠実の長男
近衛基実 - 忠通の長男 近衛家の祖
九条兼実 - 忠通の三男 一条家の祖
主な傍流 編集
藤原永手 - 房前の次男
藤原真夏 - 内麻呂の長男 日野流祖
藤原長良 - 冬嗣の長男
藤原純友 - 長良の曾孫
藤原良門 - 冬嗣の六男
藤原利基 - 良門の長男 4代後に紫式部
藤原高藤 - 良門の次男 勧修寺流祖
藤原時平 - 基経の長男
藤原実頼 - 忠平の長男
藤原頼忠 - 実頼の次男
藤原公任 - 頼忠の長男
藤原佐理 - 実頼の孫
藤原実資 - 実頼の孫
藤原伊尹 - 師輔の長男
藤原公季 - 師輔の十二男 閑院流祖
藤原兼通 - 師輔の次男
藤原道隆 - 兼家の長男
藤原道綱 - 兼家の次男
藤原道兼 - 兼家の三男
藤原宗円 - 道兼のひ孫
藤原教通 - 道長の四男
藤原頼長 - 忠実の次男
藤原清河 - 房前の四男
藤原魚名 - 房前の五男
藤原藤成 - 魚名の子
藤原豊沢 - 藤成の子
藤原村雄 - 豊沢の子
藤原秀郷 - 村雄の子
ただし、生存時期において嫡流と見なされていた人物がその後の子孫の盛衰によって傍流と位置づけられた者もいる(例・藤原永手・実頼など)。

少弐氏

少弐氏(しょうにし、旧字体: 少貳氏)
日本の氏族の一つ。
筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。
藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。

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家紋
寄懸り目結

本姓
藤原北家秀郷流または道長流武藤氏支流
家祖
武藤資頼
種別
武家
出身地
筑前国
主な根拠地
筑前国
肥前国
著名な人物
少弐資元
少弐資能
少弐貞経
少弐冬尚
鍋島経房
支流、分家
鍋島氏(武家 → 華族)
筑紫氏(武家)
馬場氏(武家)
朝日氏(武家)
横岳氏(武家)
九州千葉氏(武家)
平井氏(武家)

出自
少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになる。

同時に、資頼は藤原道長の後裔と称し、代々が武蔵国に知行を持ち、武藤氏を称したという[1]。さらに、鎮西豪族の興亡を記した戦記物によると、「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、武藤中将と称した。その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った」とある。これによれば、頼氏の子孫とする資頼は道長の後裔ということになる[2]。

平安時代末期から鎌倉時代 編集
武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。

資頼の子少弐資能の代より、少弐を姓として定常的に用いるようになる。鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は大宰府の責任者として子の少弐経資や少弐景資らとともに日本軍の先頭に立ち、元の大軍と戦うこととなる。弘安の役の際には経資の子の少弐資時が壱岐で戦死、資能自身も戦闘の際に蒙った傷で死去するなど、一族として大きな犠牲を払うこととなった。こうした功もあり、戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部九州における最大の守護にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。

鎌倉時代後期 編集
少弐資能の死後、経資と景資の兄弟間で家督をめぐり争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、弟・景資は泰盛の子・安達盛宗と共に、頼綱側についた兄・経資と戦い、敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。

鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。

南北朝時代 編集
南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府を奪われる。

室町時代 編集
九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。

戦国時代 編集
戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。後に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。

この時代も肥前北部の綾部には肥前守護で九州探題であった渋川氏が健在であったので肥前南部に移る。

当時の肥前南部は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。

滅亡 編集
資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。この際、冬尚の子冬敬が出奔していることが近年の研究で明らかになっている。

少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。

しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。その後、政興は大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。なお、元寇で戦死した少弐資時を祭神とする長崎県壱岐市の壱岐神社において、2011年(平成23年)に少弐家の子孫が参列して祭祀が執り行われた。

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