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2019年12月10日

香宗我部氏

Screenshot_20191210-183147~2.png
家紋は割菱、(武田菱)
香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。

本姓 清和源氏義光流一条氏流
   大中臣氏?
   中原氏?
   宗我部?
家祖 中原秋通
種別 武家
   士族
出身地 土佐国香美郡宗我郷
    土佐国香宗郷土井村
主な根拠地 土佐国香美郡宗我郷
      陸奥国宮城郡南小泉

初代秋通が鎌倉初期、三代成通が鎌倉中期、六代秀頼が鎌倉末から南北朝初期、八代秀能が南北朝期(この頃最盛期)、十三代親秀が戦国中期、十四代秀通が謀殺され、十五代に長宗我部親秦が就きました。
武田に戻したのは三代成通の時で、それは十四代まで続きました。

【参考1・名乗り】
初代が甲斐(武田)小太郎・中原太郎秋通
三代が武田(香宗我部)成通
六代が甲斐四郎孫・香宗我部秀頼
など。

【参考2・香宗我部系図】
源頼義−新羅三郎源義光−義清−清光−武田信義−一条忠頼
−中原秋通−宗通−武田成通−朝通−重通−秀頼−時秀
−秀能−通秀−益秀−真通(直通)−通長−親秀−秀通
−長宗我部親秦−親氏−親和−親重−・・・

【参考3・香宗我部支流各氏】
成通次男から造海氏、朝通次男から立山氏、
重通の子から松岡・岩原・水谷・青井・倉町・山本・笠原氏ら、
時秀次男より西山氏、そして秀通の子から中山田氏が出ています。
また、家臣であった中原氏の流れを汲む山田氏には、重通の子である基実が養子入りしています。

著名な人物 香宗我部通長
      香宗我部親泰
      香宗我部秀通
      香宗我部親秀

歴史
1193年、一条忠頼家臣の中原姓中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭職となり、主君・忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。秋通が香宗我部氏を称して初代となった。なお養父の秋家は土佐山田城に移り山田氏の祖となっている。

秋通の跡は宗通・成通・朝通・重通と直系で相続された。

14世紀の重通の次男・秀頼(甲斐孫四郎入道)は足利尊氏の命で長宗我部信能と共に介良庄の平定を行ったり、1362年に香宗我部の一族が物部庄を得たりと勢力を拡張している。15世紀の応仁の乱では上洛し、土佐国守護の細川氏率いる東軍に加わっている。

秀頼ののち時秀・秀能・通秀と続いたが、その後は戦国時代の親秀まで系譜の混乱がある。

通長の子という親秀は東隣の安芸郡に拠る安芸氏と抗争しながら土佐で勢力を広げるが、大永6年(1526年)に安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失った。また西の長岡郡で長宗我部国親が勢力を拡大し、香宗我部氏は東西から圧迫されるようになった。このため親秀は国親の三男・親泰を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入った[11]。ただし親秀の実弟で養子だった秀通がこれに反対したため、親秀によって殺害されている。 一方、香宗我部領の北側・香美郡中北部を勢力下としていた山田氏は長宗我部国親に滅ぼされた。

親泰は、国親の跡を継いだ元親の下で長宗我部一門として土佐・四国の統一戦に参加し活躍した。文禄の役の最中に親泰は長門国で死去し、次男の貞親(親和)が継いだ。関ヶ原の戦いの際に長宗我部氏が改易されると、貞親は土佐を去って佐倉藩主の堀田氏に仕えたが、貞親が死去したその年に佐倉藩は改易されたため、貞親の養子・重親は親類の五十嵐元成・柴田朝意兄弟が仕えていた仙台藩に仕官し、宮城郡南小泉(現:仙台市若林区南小泉)で2,000石を知行した。仙台の香宗我部氏は一族の記録を現代に伝えている[12]。

一方、養子問題で殺害された秀通の子・泰吉が中山田氏を称して親泰・貞親に仕えている。なお中山田氏は香宗我部氏の移動に同行せず土佐に残り、土佐藩では中山氏を名乗ったが、長宗我部系香宗我部氏から再度養子を迎え香宗我部分家を興したり、また武田氏・喜田氏を名乗った一族もあった。明治時代に活躍した武田秀雄 (海軍軍人)・武田秀山は香宗我部氏の出身である。

吉良 親実

吉良 親実(きら ちかざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。吉良親貞の子。
生誕 永禄6年(1563年)
死没 天正17年(1589年)9月以降
改名 新十郎(幼名)→親実
別名 受領名左京進
氏族 吉良氏
父 吉良親貞
母 吉良駿河守宣直の娘?
兄弟 如淵、親正、親英?
妻 正室:長宗我部元親の娘
子 町源右衛門

生涯
編集
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の弟・吉良親貞の子。幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用されたが、気性が激しいところがあった。

父の死後、その家督を相続する[注釈 1]。そして一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた[注釈 2]。天正14年(1586年)12月、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序から元親の次男・香川親和を推し、4男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は生来の気性の激しさから、元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興と共に切腹を命じられたとされる[注釈 3]。だが、親実による天正17年9月10日(1589年10月19日)付の西諸木若一王子の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また、『長宗我部地検帳』の中でも天正19年1月16日(1591年2月9日)の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に直接知行が宛がわれており彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは天正17年9月以降天正19年1月以前であったと推定される[注釈 4]。

親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており[注釈 5]、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある[注釈 6]。それゆえか木塚明神や[注釈 7]、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。

彼の子孫は、姓を町氏と改め肥後藩に仕えたと言う。

本山氏 家臣団

本山氏 家臣団 (もとやましかしんだん)
 本山養明 (?〜?)
 本山家当主。永正五年豊かな長宗我部領を手に入れるため、山田氏、吉良氏らと共に岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討ち取った。
 
 
  本山茂宗 (?〜1555年)
 本山養明の子。本山城を子の茂辰に譲り、自身は朝倉城に居住。天文九年頃、弘岡に兵を進め、吉良氏を滅ぼす。天文十三年、高岡郡に攻め込み、一条氏と交戦。これに敗れ、撤退した。天文二十四年没。
 
 
  本山茂定 (?〜?)
 本山茂辰の叔父。朝倉城主。
 
 
  本山親茂 (?〜?)
 本山茂辰の長男。将監。母は長宗我部国親の娘。永禄五年九月十六日、長宗我部家との朝倉合戦で奮戦。見事、長宗我部軍を撃退。長宗我部元親が神田城に籠もると、これを攻める。攻め倦ねて城攻めを断念。この時、十六歳と云う。続く十八日にも元親は朝倉城攻めのため、神田城から出陣。本山茂辰軍と鴨部ノ宮付近で交戦。合戦は三十余度に渡り、本山一族二十三人、郎党八十五人、軍勢二百三十五人が討死。長宗我部軍は五百十一人が討死した。数からすれば本山家の勝利だが、これ以上の朝倉城防衛は困難であり、家中も城の処遇を巡って分裂。結局、永禄六年一月十日に茂辰は朝倉城を焼き、二十八日には本山城へ撤退した。こうして長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を嗣がせ、吉良峰城主とした。長宗我部家の土佐中部進出は成就したのだ。永禄七年、本山茂辰は本山城を捨て、瓜生野に撤退。長宗我部勢の追撃を受け、当初は競り合ったものの、次第に劣勢となる。やがて茂辰が病没。親茂は家督を継ぐも、元亀元年に降伏。元親も甥親茂を不憫に思うようになり、岡豊城下に住まわせた。弟は内記、又四郎。他に妹が二人いた。
 
 
  本山内記 (?〜?)
 本山茂辰の次男。本山親茂の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、吉良親貞の家臣として蓮池に所領を賜る。
 
 
  本山又四郎 (?〜?)
 本山茂辰の三男。本山親茂、内記の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、長宗我部家臣西和田越後の入り婿となる。西和田勝兵衛を名乗り、馬廻衆となった。岡豊城下西和田に居住した。
 
 
  八木実茂 (?〜?)
 本山一族。大永七年、朝倉池内天神社に棟札を与える。長宗我部家滅亡により、本山家の所領が鏡川を越えて朝倉にまで達したことを意味する。
 
 
  井口勘解由 (?〜1560年)
 土佐井口城主。長宗我部重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否。周孝に攻められるも、三百の兵で撃退。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死。居城も落とされた。
 
 
  大高坂権頭 (?〜?)
 土佐大高坂城主。後に長宗我部家臣となる。
 
 
  久万俊宗 (?〜?)
 土佐久万城主。豊後守。永禄三年、長宗我部勢に攻められ降伏。以降、長宗我部家臣となる。子は俊政。
 
 
  神森出雲 (?〜1561年)
 土佐神森城主。永禄四年、長宗我部家臣福留隼人、中島大和に攻められる。水を断たれるも、白米で馬を洗い、水の豊富さを演出。これを見た福留らは撤退するも、五名ほどが残り、城の北側から火を放つ。これにより城兵は錯乱し、出雲も自刃した。妻は脱出の際に谷に落ち、死没。後にその霊を慰めるため祠が建てられた。
 
 
  秋山刑部丞 (?〜?)
 土佐秋山城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄三年、長宗我部元親に降伏。
 
 
  弘田伊賀守 (?〜?)
 土佐芳原城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄四年、長宗我部元親に降伏。
 
 
  田上善衛門 (?〜?)
 弘治二年、加田城番。
 
 
  大窪美作守 (?〜?)
 土佐長浜城主。永禄三年五月二十六日夜、土佐長浜城は長宗我部勢の攻撃で陥落した。
 
 
  高橋壱岐守 (?〜?)
 土佐雀ヶ森城主。
 
 
  秦泉寺茂景 (?〜?)
 土佐秦泉寺城主。掃部頭。弘治二年、長宗我部国親に攻められる。後に長宗我部元親に攻められ降伏。万々城に移された。
 
 
  富家刑部 (?〜?)
 弘治三年以降、土佐森山城番。永禄三年、長宗我部元親に降伏。以後も森山城を守る。
 
 
  中島新介 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城攻めのため一宮に攻め込む。高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らもこれに加わる。泰泉寺方面も攻めるが、泰泉寺大和守らに迎撃され撤退。
 
 
  竹中弥右衛門 (?〜?)
 本山家臣。永禄年間頃の人。
 
 
  宇賀平兵衛 (?〜1560年)
 永禄三年、長宗我部家との合戦で浜田久左衛門を討つ。しかし、浜田久左衛門の弟善左衛門に討たれた。
 
 
  中島新介 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  高石与七 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  岡崎与左衛門 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  桑川久助 (?〜?)
 永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
 
 
  【付記】
 
 
 
 永禄三年五月二十六日、長浜城は長宗我部家の夜襲を受ける。長浜落城の報を受けた茂辰は二十七日、二千名を率いて出陣。戸ノ本にて長宗我部軍千余名と交戦。この合戦は「戸ノ本合戦」と呼ばれる。本山軍は数で勝っていたが敗れ、逆に逃げ込んだ浦戸城を包囲されてしまう。長宗我部軍は浦戸城攻めを諦め、撤退するも、敗戦によって家中は大きく動揺した。同年八月、一条氏に蓮池城を落とされた。

     長宗我部国親━┳━長宗我部元親
            ┣━吉良親貞(吉良氏)
            ┗━女子
               ‖
本山養明━┳━本山茂宗━━━本山茂辰━┳━本山親茂
     ┗━本山茂定        ┣━本山内記
                   ┣━本山又四郎
                   ┣━女子
                   ┗━女子

久万俊宗━━━久万俊政

本山養明(もとやま やすあき)

本山養明(もとやま やすあき)(生没年不詳)
土佐の豪族。八木伊典の子。山田・吉良家らと連合して岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討った。本山家は伊典の代に本山に居住し、地名を姓としたのに始まる。
子 本山茂宗
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