アフィリエイト広告を利用しています
<< 2019年12月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
検索
ファン
最新コメント
写真ギャラリー
最新記事
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
日別アーカイブ

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年12月25日

藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)
奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家の名族を多く輩出した。
Screenshot_20191225-202921~2.png
家紋
さがりふじ
下り藤
代表的な藤原氏の家紋である
各、藤原氏によって異なる。

本姓
藤原朝臣
家祖
藤原武智麻呂
種別
神別(天神)
出身地
大和国
主な根拠地
大和国
山城国 ほか
著名な人物
藤原武智麻呂
藤原仲麻呂
藤原貞嗣
藤原敏行
藤原為憲
右近
藤原保昌
藤原季範
藤原通憲(信西)
藤原範季
支流、分家
藪(高倉)家(公家)
中園家(公家)
高丘家(公家)
工藤氏(武家)
伊東氏(武家)
伊藤氏(武家)
二階堂氏(武家)
相良氏(武家)
吉川氏(武家)
天野氏(武家)
中川氏(武家)
川井氏(武家)
分部氏(武家)
狩野氏(武家)
小出氏(武家)
千秋家(社家)など

概要
飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家の確立を主導した政治家藤原不比等の4人の男子(藤原四兄弟)は、神亀6年(729年)長屋王の変により政敵長屋王を排斥し、妹光明子を聖武天皇の皇后に立てて政権を掌握した。四兄弟の長兄である武智麻呂は、廟堂の首班を務めて右大臣まで昇ったが、天平9年(737年)天然痘の流行のために他の兄弟とともに病没してしまう。

その後廟堂の実権は皇親の橘諸兄に移ったが、その下で武智麻呂の長男藤原豊成は順調に昇進し、天平感宝元年(749年)右大臣に任ぜられる。一方、同年孝謙天皇が即位して皇太后となった光明子の下に紫微中台が設置され、甥の仲麻呂(武智麻呂の次男)が長官(紫微令)に就く。仲麻呂は、紫微中台を太政官とは別個の国政機関としてその権限を強化していき、諸兄の子橘奈良麻呂が中心となってこれを排除しようと企てた乱も未然に防いで多くの皇族・他氏族のほか兄豊成を含めた政敵を一掃する。淳仁朝では、息子3人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を参議に任じ、自身は人臣初の太政大臣(唐風に改めて「大師」と称する)まで昇りつめたが、天平宝字8年(764年)恵美押勝の乱により失脚した。

その後奈良時代末期から平安時代初期には、武智麻呂・房前の弟宇合に始まる藤原式家が台頭し、南家の勢力は低落する。桓武朝において、豊成の子継縄と武智麻呂三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となったものの、続く平城朝の大同2年(807年)に当時政権二番手、三番手の座にあった大納言藤原雄友(是公の子)・中納言藤原乙叡(継縄の子)が伊予親王の変に連座して失脚し、豊成・乙麻呂の系統も衰退した。嵯峨朝に入ると、武智麻呂四男巨勢麻呂の子孫である貞嗣・三守が中納言まで昇るものの、淳和朝に入るとしばらく南家出身の議政官が不在の時期が続くなど、大臣を出した北家(内麻呂・園人・冬嗣)や式家(緒嗣)に比べ勢力を伸ばすことができなかった。仁明朝では三守が右大臣に昇り南家から約50年ぶりの大臣となるが、わずか在任2年で没すると、以後急速に台頭した藤原北家や源氏の勢力に押され、30年以上も南家からは公卿を出せなかった。

平安中期以後は、巨勢麻呂の子孫が中下級貴族として続き、学者を多く輩出した。平安時代末期に平清盛と結んで勢威を得た院近臣藤原通憲(信西)はその代表である。また後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫から、堂上家である高倉家(室町時代末に無嗣絶家、江戸時代に再興して藪家(藤原北家閑院流四辻支流)に改号)が出た。

なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は、地方に下って各地の武家となり、工藤氏・伊東氏・伊藤氏・二階堂氏・相良氏・吉川氏・天野氏などを出した。

一族
藤原豊成 - 武智麻呂の長男。
藤原仲麻呂(恵美押勝) - 武智麻呂の次男。
藤原乙麻呂 - 武智麻呂の三男。
藤原巨勢麻呂 - 武智麻呂の四男。
藤原継縄 - 豊成の子。
中将姫 - 豊成の娘という伝説上の人物。
藤原真従 - 仲麻呂の子。
藤原真先 - 仲麻呂の子。
藤原訓儒麻呂 - 仲麻呂の子。
藤原朝狩 - 仲麻呂の子。
藤原刷雄 - 仲麻呂の子。
藤原薩雄 - 仲麻呂の子。
藤原辛加知 - 仲麻呂の子。
徳一 - 仲麻呂の子。
藤原是公 - 乙麻呂の子。右大臣。
藤原雄友 - 是公の子。
藤原吉子 - 是公の娘。桓武天皇夫人、伊予親王母。
藤原黒麻呂 - 巨勢麻呂の子。藻原荘を開墾。
藤原伊勢人 - 巨勢麻呂の子。東寺、鞍馬寺の創建に関わる。
藤原貞嗣 - 巨勢麻呂の子。『日本後紀』の撰修に参加。
藤原三守 - 巨勢麻呂の孫。右大臣。
藤原美都子 - 巨勢麻呂の孫。藤原冬嗣室、良房母。
藤原貞子 - 三守の娘。仁明天皇女御。
藤原保則 - 継縄の曾孫。元慶の乱を鎮撫。
藤原清貫 - 保則の子。
藤原敏行 - 歌人。武智麻呂の来孫(孫の孫)。
藤原元真 - 歌人。
藤原盛子 - 藤原師輔室。伊尹、兼通、兼家、安子らの母。
藤原為憲 - 武人。平将門追討に功あり。工藤氏、伊東氏、二階堂氏などの祖。
右近 - 歌人。
藤原棟世 - 清少納言の夫。
上東門院小馬命婦 - 歌人。棟世と清少納言の娘。
覚運 - 天台宗檀那流の祖。
藤原菅根 - 醍醐天皇近臣。昌泰の変にて菅原道真の排斥に加担。
藤原元方 - 菅根の子。大納言。怨霊伝説あり。
藤原致忠 - 元方の子。薫物の名手。
藤原陳忠 - 元方の子。『今昔物語集』の逸話で著名。
藤原保昌 - 致忠の子。藤原道長四天王の一人。武人として著名。
藤原保輔 - 致忠の子。大盗賊「袴垂」として著名。
藤原登任 - 源頼義の前任の陸奥守。
藤原重経 - 紀伊守。法名・素意。歌人。
藤原高仁 - 貞嗣の子。相模介。宮内卿。
藤原保蔭 - 高仁の子。相模介。
藤原道明 - 保蔭の子。播磨介。相模介。大納言。『延喜式』の編集に参画。
藤原尹文 - 道明の子。播磨介。
藤原永頼 - 尹文の子。
藤原能通 - 永頼の子。左兵衛佐。
藤原実範 - 能通の子。漢学者・漢詩人。
藤原季綱 - 実範の子。漢学者・漢詩人。
藤原実兼 - 季綱の子。『江談抄』筆記者とされる。
藤原通憲(信西) - 実兼の子。法名・信西。平安時代末期権力を握る。
紀伊局 - 本名・藤原朝子。後白河天皇の乳母。通憲の妻。紀伊二位。
藤原俊憲 - 通憲の子。
藤原成範 - 通憲の子。通称・桜町中納言。
澄憲 - 通憲の子。安居院流唱導の祖。
覚憲 - 通憲の子。興福寺別当。
明遍 - 通憲の子。蓮花三昧院の開祖。
勝賢 - 通憲の子。醍醐寺座主、東大寺別当。
貞慶 - 通憲の孫。解脱上人。法相宗の高僧。
小督 - 成範の娘。高倉天皇の寵妃。
藤原季範 - 実範の孫。熱田神宮大宮司。藤姓大宮司職の初代。
藤原範忠 - 季範の子。熱田大宮司二代目。
由良御前 - 季範の娘。源義朝室、頼朝母。
藤原尹明 - 平治の乱の際に二条天皇を脱出させる。
藤原範季 - 後白河法皇院近臣。高倉家祖。
藤原兼子 - 範季の姪。通称・卿二位。後鳥羽天皇乳母。
藤原重子 - 範季の娘。院号・修明門院。後鳥羽天皇寵妃、順徳天皇生母。

藤原南家系譜

相良氏

相良氏(さがらうじ、さがらし)
肥後南部を支配した戦国大名の氏族である。
江戸時代は肥後人吉藩主家として
明治維新まで存続した。
家紋
Screenshot_20191225-175344~2.png
長剣梅鉢

本姓
藤原南家為憲流[1]
家祖
維兼[1]または相良周頼
種別
武家
華族(子爵)
出身地
遠江国榛原郡相良荘[1](相良館)[注釈 1]
主な根拠地
肥後国球磨郡多良木荘
肥後国球磨郡人吉荘
肥後国山鹿郡泉新荘[注釈 2]

豊前国上毛郡成恒荘[注釈 3]
支流、分家
多良木氏(上相良氏)(武家)
上村氏(武家)
稲留氏(武家)
犬童氏(武家)
深水氏(武家)
佐牟田氏(武家)
丸目氏(武家)
丸野氏(武家)
永留氏(武家)
内田氏(武家)
など

出自
家紋
Screenshot_20191225-184406~2.png
相良氏使用紋(相良瓜)

藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流で、『求麻外史』では工藤維兼(くどう これかね)を相良氏の祖としている[4]が、『寛政重脩諸家譜』ではその孫にあたる工藤周頼(くどう かねより)が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたのを始まりとしている[5]。ただし周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫(祐光の子)、光頼を養子として家督を継がせた[6][1]。このために日向伊東氏とも近縁である[7]。

太田亮は『姓氏家系大辞典』の中で、相良氏系図で藤原為憲の子・時理の弟におく時文から周頼までの人名が他の藤原南家の諸系図には見られないこと、世代数が多く時代が合わないこと、異説が多いことを挙げて、相良氏系図の初期部分に混乱が見られることを指摘している[7][注釈 4]。そして、相良光頼が伊東氏からの養子であることに注目し、相良氏系図の混乱は光頼の実家と養家との両家系を接続したため生じたものではないかと考察している[7]。また『新撰事蹟通考』引用の系図から相良氏は鎮西伊佐氏(鎮西平氏)と関係があり、橘氏らと共に遠江国に移ってきた推測もできること、遠藤氏・井伊氏らと関係が深い氏族であることを示唆している[7]。

歴史
鎌倉時代
相良頼景は、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は肥後国多良木荘に追放された。しかし頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。さらに、頼景の長男・長頼も二俣川の合戦で手柄を立て、人吉荘を与えられた。なお、頼景を相良氏の初代とする向きもあるようであるが、相良氏の史料『南藤蔓綿録』などでは長頼を初代とし、『人吉市史』もそれを採用しているためそれに準拠する。

頼景は死に際して多良木荘を惣領の長頼に与えたが、結局のところ分割相続によって長頼の子孫で各地の所領は分けられた。なかでも多良木荘(上球磨)の相良氏は上相良氏、人吉荘(下球磨)の相良氏は下相良氏と呼ばれ、相良荘に残った相良氏は遠江相良氏と呼ばれる。

南北朝時代
南九州の国人衆と一揆を結んで九州探題の今川了俊に与同し、肥後・日向方面に勢力を伸ばしていた島津氏に対抗している[8]。

室町時代
室町時代の文安5年(1448年)、下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼし球磨を統一、さらに肥後国守護菊池氏により八代と葦北の占有・保持を許され、球磨・八代・葦北三郡の統一に成功した。ただし、八代の家臣は小豪族による国一揆を形成していたため[9]、当主自らが数か月毎に人吉と八代とを移動して、それぞれに政務を執り行う必要があった[注釈 5]。

戦国時代
戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の跡を継いだ相良晴広の時代には分国法「相良氏法度20か条」や「晴広式目21か条」を制定し、また周防国守護大内氏の許可を得て、明との勘合貿易にも取り組み最盛期を迎えた。しかし晴広の子の相良義陽の時代に入ると、南の薩摩国から島津義久の侵攻を受けて天正9年(1581年)に降伏する。しかも、同年に義陽が甲斐宗運と戦って敗死したため(響野原の戦い)、相良氏は一時滅亡の危機に立たされた。

ところが、義陽の次男・相良頼房が家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けたため、義久も存続を認めた。九州征伐後、豊臣秀吉より人吉2万石の領主として存続を許された。

江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返ったため、戦後に徳川家康より所領を安堵され相良氏は人吉藩として存続した。相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで800年以上領地替えされることもなく続いた大名の一つでもある。

相良一族
相良長頼
相良頼親
相良頼俊 - 長頼の三男。兄の頼親より家督を譲り受ける。
相良長氏
相良頼広
相良定頼
相良前頼
相良実長
相良前続
相良堯頼
相良長続 - 永留氏8代・実重の子。堯頼を逐った多良木兄弟を討滅する。
相良為続
相良長毎
相良長祗
相良長定 - 長続の孫。正統なる嫡流を主張し、長祗を逐い政権を奪取する。
相良義滋 - 長祗の兄。長定を逐う。
相良晴広 - 上村頼興の子で、義滋の養嗣子。
相良義陽 - 晴広の子。
相良忠房 - 義陽の長男。
相良頼房 - 初代人吉藩主。義陽の次男。
相良頼寛
相良頼喬
相良頼福
相良長興
相良長在
相良頼峯
相良頼央
相良晃長
相良頼完
相良福将
相良長寛
相良頼徳
相良頼之
相良長福
相良頼基
相良頼紹
相良頼綱
相良頼知

庶家
多良木氏(上相良氏)
多良木頼氏(相良長頼の次男、初代)
多良木頼宗(2代)
多良木経頼(3代、九州南朝方の主要な武士の1人)
多良木頼仲(4代)
多良木頼忠(5代)
多良木頼久(6代)
多良木頼観(7代)
多良木頼仙(頼観の弟)
永留氏
相良頼明(相良長頼の三男相良頼親の長子、初代)
永留頼常(頼明の子)
永留頼積
永留長滋
永留頼均
永留頼道
永留頼連
永留実重(長子は本家相続相良長続)
上村氏
相良頼村(相良長頼の四男、初代)
上村頼武(2代)
上村頼綱(3代)
上村隆頼(4代)
上村長房(5代)
上村頼織(6代)
上村頼国(7代)
上村頼威(8代)
上村運重(9代)
上村高頼(10代)
上村直頼(11代)
上村長国(直頼の弟)
上村頼廉(12代)
上村頼興(13代、長子は本家相続相良晴広)
上村長種(頼興の弟)
上村頼孝(14代)
上村頼堅(頼孝の弟)
稲留氏
稲留長蔵
犬童氏
犬童頼安
犬童頼兄(相良清兵衛)
深水氏
深水頼金
深水長智
深水頼蔵
佐牟田氏
佐牟田長堅
丸目氏
丸目頼書(相良定頼の三男)
丸目頼美
(同姓であるが、丸目長恵は血縁も系譜上も無関係。)
丸野氏
丸野頼成
内田氏
内田(山井)宗頼
内田頼重
内田鎮次
内田鎮家
内田統続

小苗字
苗字 編集
相良宗家には35、上相良家には8の小苗字を有する家が存在した[10]。以下に列記する。

相良家 編集
愛甲
有瀬
板井
稲留
今村
犬童
内田
亀山
川馳
桑原
佐原
佐牟田
澄川
薗田
外越
高橋
竹下
鶴田
豊永
中島
西
西橋
馬場園
林田

深水
松本
丸目
簑毛
村山
樅木
山井
山北
山本
吉牟田
上相良家 編集
井口
岩崎
乙益
久保田
黒肥地
新堀
鍋倉
肥地岡

十河景滋

十河 景滋(そごう かげしげ)
十河存春(そごうまさはる)別名
永正7年(1510年)- 永禄2年(1559年)
戦国時代の武将。
讃岐国の国人で管領細川氏に仕える三好氏と共に仕える。讃岐十河城主。
十河易正の子。

国造本紀

国造本紀(こくぞうほんぎ)
大倭 (やまと) 国以下の国造の歴名,本系を記したもの。編者未詳。1巻。平安時代初期の成立。『旧事本紀』巻 10所収。神代本紀から帝皇本紀までの9巻が編年史であるのに対し,巻 10には別に序文があり,独立した一書の体裁をとっている。

古代の史書。大化(たいか)改新以前の畿内の大倭(やまと)から南海の多【ね】(たね)まで全国各地の国造(くにのみやつこ)の名をあげ,その系譜と叙任を記している。後世の律令(りつりょう)時代の国造や国司(こくし)の名が混入しているが,古代史研究の史料として貴重。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の巻10に収められている。

讃岐国造

讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ・さぬきこくぞう)
後の令制国の讃岐国、
現在の香川県を支配した国造。

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神天皇の御世に、景行天皇の子の神櫛王の3世孫の須賣保禮命を国造に定められたとされる。

『続日本後紀』延暦10年9月18日条に凡直千継の改姓申請が記されている。これには、凡直氏の祖先は星直氏といい、敏達天皇期に国造として「紗抜大押直」の姓を賜ったが、庚午年籍で「大押」を改め「凡直」となり、奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となったとし、申請者の千継らは先祖の業により「讃岐公」への改姓が許可されたとある。

のちに讃岐永直を輩出する。

植田氏

植田氏(うえたし)
平安時代後期から戦国時代にかけての日本の武家、讃岐国の讃岐氏の一族である。初期の頃には殖田とも記される。家紋は扇。

本姓
讃岐朝臣
家祖
植田政景
種別
武家
出身地
讃岐国山田郡植田郷
主な根拠地
讃岐国山田郡
支流、分家
神内氏、三谷氏、十河氏など

概要
讃岐国の春日川流域に興った土豪で、平安時代末期の源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島の戦いでは、源氏方で参戦している。室町時代は、讃岐国守護の細川管領家、守護代安富氏の臣下に入り、讃岐国山田郡の領主。代々戸田城を主城とするが、戦国時代になり土佐国の長宗我部元親の侵攻により、落城した。豊臣秀吉軍による四国平定後は、豊臣方に臣従している。

出自
讃岐国造の参照

讃岐氏

讃岐氏(さぬきし、さぬきうじ)
日本の古代氏族。


氏姓
讃岐凡直、讃岐直、讃岐公、讃岐朝臣
始祖
神櫛皇子
種別
皇別
本貫
讃岐国寒川郡神崎郷
著名な人物
讃岐永直
後裔
和気氏、植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏

神櫛皇子を始祖とする皇別氏族。讃岐国を本拠地とし、皇子3世が讃岐国造を賜ったことによってに始まり、同国で繁栄した氏族。

概要
神櫛皇子は12代景行天皇と五十河媛との間に生まれ、讃岐国に下る。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、応神天皇期、皇子の3世孫の須賣保禮命が国造に定められたとされる。 その子孫は一時期を除き代々これを世襲し、この地域を治めた。 敏達天皇期に「紗抜大押直」(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜り、さらに庚午年籍で「大押」を改め「凡直」(おおしのあたい)となる。 奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となるが、後に凡直千継(おおしのちつぐ)の時、延暦10年(791年)「讃岐公」へ改賜された[8]。

平安時代に入ると、讃岐千継、広直、浄直、永直、永成など数世代にわたり明法博士を出している。讃岐永直は当時の優れた明法家として知られ、『令義解』の撰者の一人となった。承和3年(836年)弟の永成、従兄弟の当世らと供に「讃岐朝臣」を改賜されている。永直はこの時本貫を京都に移し、その子孫は和気氏を称した。 永直没後の貞観6年(864年)、高作(永成の子)、時雄(当世の子)、時人(永直の子)が「和気朝臣」を賜姓されている。

讃岐氏の子孫はその後も讃岐国で繁栄し、後裔には植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏、三木氏などの庶家が出た。

十河氏

十河氏(そごうし)
日本の氏族のひとつ。
Screenshot_20191225-125906~2.png

くぎょうにひおうぎ
公饗に檜扇
本姓
讃岐氏植田氏流
種別
武家
出身地
讃岐国山田郡蘇甲(十河郷)
主な根拠地
讃岐国山田郡十河城[注釈 1]
著名な人物
十河存春
十河一存
十河存保

古代讃岐に下った神櫛皇子の流れをくむ植田氏の一族であり、中世讃岐国の土豪である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成したが、戦国時代に鬼十河(十河一存)らの活躍により讃岐一円を制覇する。通字は「存」。

概要
南北朝時代以降、四国においては守護大名細川氏による在地国人の被官化が進行し、十河氏ら植田党もその傘下となる。

戦国時代には細川氏の内乱(永正の錯乱)に乗じて三好氏と結び、讃岐守護代であった香西氏などと抗争しつつ勢力を拡大していった。後に甲斐源氏の流れをくむ阿波小笠原氏一族の三好長慶の弟(十河一存)が十河氏を継ぐことにより三好一門となる。一存は勇猛で「鬼十河」の異名を取ったが、有馬権現にて参拝途上の落馬により永禄4年(1561年)に急死した。一存の兄の三好実休の次男の十河存保がその跡を継ぐことになる。

存保は讃岐を支配していたが、実休の嫡男である三好長治が反乱により自刃し、阿波が混乱すると三好氏の家臣の要請により阿波も支配するようになった。存保は上洛を果たした織田信長に降り勢力を保持しようとしたが、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになる。従属先の信長が1582年に本能寺の変で急死、さらに中富川の戦いなどで元親に連敗した存保は阿波勝瑞城や讃岐十河城を失う。秀吉の援軍を引田の戦いで破った長宗我部氏の勢いはとどまることを知らず、窮地に追い込まれた存保だったが柴田勝家を破り四国征伐に本格的に取り組みはじめた羽柴秀吉の助力を得て抗戦、秀吉は元親を降伏させた。一方、秀吉と共に戦った存保は所領を安堵された。

その後秀吉の九州征伐軍に参加し、1586年(天正14年)に豊後国の戸次川で島津家久と交戦したが(戸次川の戦い)、軍目付の仙石秀久の失策により存保は討死してしまう。存保の遺児の千松丸も生駒親正の保護下において1589年(天正17年)に謎の急死を遂げた。

最後に残った存保のもう一人の遺児である存英も大坂夏の陣にて戦死し、十河氏直系は断絶した。

四国の覇権を巡って争った十河氏と長宗我部氏は、秀吉に臣従した後の戸次川の戦いで存保と元親の嫡男の信親が戦死、30年ほど後の大坂夏の陣では存保の子・存英と元親の四男・盛親が秀吉の子・秀頼に殉じた。

歴史ゲームによる人気の影響を受け、2012年(平成24年)から開始された元親を顕彰する「長宗我部まつり」に2014年(平成26年)、十河氏の傍流の末裔が参加することが報道された。

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。