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2019年12月12日

大平元国

大平元国【おおひらもとくに(15??〜15??)】
大平国雄の男。官途は隠岐守。1508年、「岡豊城の戦い」で本山養明、吉良宣経、山田元秀とともに長宗我部兼序を討取る戦功を挙げた。1519年、庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造した。1543年、「姫野々館の戦い」で津野基高を支援して一条房基勢と戦い敗退した。1546年、「須崎の戦い」で津野基高とともに一条房基勢と戦い降伏した。

津野親忠

津野 親忠(つの ちかただ)は、
安土桃山時代の武将。
長宗我部氏の家臣。
長宗我部元親の三男。

生涯
元亀3年(1572年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の三男として誕生。

父・元親が土佐国の豪族・津野氏を降し、津野勝興の養子として親忠を送り込んだことにより津野氏の当主となった。ところが、天正13年(1585年)の四国の役で父が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られる。

だが天正14年(1586年)、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死すると、親忠も長宗我部氏の家督相続争いに巻き込まれる。家臣の久武親直の讒言に加え、人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって父・元親からは嫌われ、家督は弟の長宗我部盛親が継ぐこととなった。慶長4年(1599年)3月には元親によって幽閉される[注釈 1]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで当主・盛親が西軍に与して敗れた後、親忠も井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたが、親直が「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したため[注釈 2]、親忠は盛親によって9月29日に香美郡岩村・霊厳寺にて殺害された。享年29。親忠を殺したことにより、盛親は「兄殺し」として家康に咎められたことが長宗我部氏の改易の一因となった。

この盛親が、親直の讒訴によって「兄殺し」をした話は『土佐国編年紀事略』に記述されている。一方で『土佐物語』では親直の讒訴を盛親は聞き入れなかったが、親忠の抹殺を願う親直は「盛親の命令があった」と、大義名分を捏造して親忠を殺害したと伝える[3]。なお、長宗我部氏に代わって土佐国の大名となった山内一豊は、土佐入国後の領内の巡視を行った際に、「津野親忠自殺の始末を知る者はないか」と問うたため、須崎代官を勤めていた柏原新之丞が「中平清兵衛が津野氏一族なのでこの者を召されれば事実が明らかになるでしょう」と答えた。そこで、清兵衛が召しだされて津野氏断絶の一部始終が一豊に伝えられた。

安芸 国虎

安芸国虎(あき・くにとら) 1541?〜1569
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安芸元泰の子。備後守。安芸氏は蘇我赤兄の流れを汲むといわれる名族で、安芸七守護のひとり。土佐国安芸郡安芸城主。
一条氏の女を妻とした。
代々土佐東部にその武威を誇り、安芸郡の大領を相伝していたが、長岡郡岡豊城に拠る長宗我部氏の台頭により、長宗我部元親と争った。
天文13年(1544)に父・元泰が没したとき、国虎はまだ4歳だったといわれ、同族の後見を受けた。当主として活動を始めるのは弘治3年(1557)頃のことである。
近隣の和食氏や香宗我部氏を圧迫し、勢力拡大を目論む。永禄6年(1563)、元親が長岡郡の本山氏と争っている際、幡多郡の一条氏の援軍を得て岡豊城を攻めるも失敗する。
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