2019年12月10日
本山氏 家臣団
本山氏 家臣団 (もとやましかしんだん)
本山養明 (?〜?)
本山家当主。永正五年豊かな長宗我部領を手に入れるため、山田氏、吉良氏らと共に岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討ち取った。
本山茂宗 (?〜1555年)
本山養明の子。本山城を子の茂辰に譲り、自身は朝倉城に居住。天文九年頃、弘岡に兵を進め、吉良氏を滅ぼす。天文十三年、高岡郡に攻め込み、一条氏と交戦。これに敗れ、撤退した。天文二十四年没。
本山茂定 (?〜?)
本山茂辰の叔父。朝倉城主。
本山親茂 (?〜?)
本山茂辰の長男。将監。母は長宗我部国親の娘。永禄五年九月十六日、長宗我部家との朝倉合戦で奮戦。見事、長宗我部軍を撃退。長宗我部元親が神田城に籠もると、これを攻める。攻め倦ねて城攻めを断念。この時、十六歳と云う。続く十八日にも元親は朝倉城攻めのため、神田城から出陣。本山茂辰軍と鴨部ノ宮付近で交戦。合戦は三十余度に渡り、本山一族二十三人、郎党八十五人、軍勢二百三十五人が討死。長宗我部軍は五百十一人が討死した。数からすれば本山家の勝利だが、これ以上の朝倉城防衛は困難であり、家中も城の処遇を巡って分裂。結局、永禄六年一月十日に茂辰は朝倉城を焼き、二十八日には本山城へ撤退した。こうして長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を嗣がせ、吉良峰城主とした。長宗我部家の土佐中部進出は成就したのだ。永禄七年、本山茂辰は本山城を捨て、瓜生野に撤退。長宗我部勢の追撃を受け、当初は競り合ったものの、次第に劣勢となる。やがて茂辰が病没。親茂は家督を継ぐも、元亀元年に降伏。元親も甥親茂を不憫に思うようになり、岡豊城下に住まわせた。弟は内記、又四郎。他に妹が二人いた。
本山内記 (?〜?)
本山茂辰の次男。本山親茂の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、吉良親貞の家臣として蓮池に所領を賜る。
本山又四郎 (?〜?)
本山茂辰の三男。本山親茂、内記の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、長宗我部家臣西和田越後の入り婿となる。西和田勝兵衛を名乗り、馬廻衆となった。岡豊城下西和田に居住した。
八木実茂 (?〜?)
本山一族。大永七年、朝倉池内天神社に棟札を与える。長宗我部家滅亡により、本山家の所領が鏡川を越えて朝倉にまで達したことを意味する。
井口勘解由 (?〜1560年)
土佐井口城主。長宗我部重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否。周孝に攻められるも、三百の兵で撃退。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死。居城も落とされた。
大高坂権頭 (?〜?)
土佐大高坂城主。後に長宗我部家臣となる。
久万俊宗 (?〜?)
土佐久万城主。豊後守。永禄三年、長宗我部勢に攻められ降伏。以降、長宗我部家臣となる。子は俊政。
神森出雲 (?〜1561年)
土佐神森城主。永禄四年、長宗我部家臣福留隼人、中島大和に攻められる。水を断たれるも、白米で馬を洗い、水の豊富さを演出。これを見た福留らは撤退するも、五名ほどが残り、城の北側から火を放つ。これにより城兵は錯乱し、出雲も自刃した。妻は脱出の際に谷に落ち、死没。後にその霊を慰めるため祠が建てられた。
秋山刑部丞 (?〜?)
土佐秋山城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄三年、長宗我部元親に降伏。
弘田伊賀守 (?〜?)
土佐芳原城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄四年、長宗我部元親に降伏。
田上善衛門 (?〜?)
弘治二年、加田城番。
大窪美作守 (?〜?)
土佐長浜城主。永禄三年五月二十六日夜、土佐長浜城は長宗我部勢の攻撃で陥落した。
高橋壱岐守 (?〜?)
土佐雀ヶ森城主。
秦泉寺茂景 (?〜?)
土佐秦泉寺城主。掃部頭。弘治二年、長宗我部国親に攻められる。後に長宗我部元親に攻められ降伏。万々城に移された。
富家刑部 (?〜?)
弘治三年以降、土佐森山城番。永禄三年、長宗我部元親に降伏。以後も森山城を守る。
中島新介 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城攻めのため一宮に攻め込む。高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らもこれに加わる。泰泉寺方面も攻めるが、泰泉寺大和守らに迎撃され撤退。
竹中弥右衛門 (?〜?)
本山家臣。永禄年間頃の人。
宇賀平兵衛 (?〜1560年)
永禄三年、長宗我部家との合戦で浜田久左衛門を討つ。しかし、浜田久左衛門の弟善左衛門に討たれた。
中島新介 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
高石与七 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
岡崎与左衛門 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
桑川久助 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
【付記】
永禄三年五月二十六日、長浜城は長宗我部家の夜襲を受ける。長浜落城の報を受けた茂辰は二十七日、二千名を率いて出陣。戸ノ本にて長宗我部軍千余名と交戦。この合戦は「戸ノ本合戦」と呼ばれる。本山軍は数で勝っていたが敗れ、逆に逃げ込んだ浦戸城を包囲されてしまう。長宗我部軍は浦戸城攻めを諦め、撤退するも、敗戦によって家中は大きく動揺した。同年八月、一条氏に蓮池城を落とされた。
長宗我部国親━┳━長宗我部元親
┣━吉良親貞(吉良氏)
┗━女子
‖
本山養明━┳━本山茂宗━━━本山茂辰━┳━本山親茂
┗━本山茂定 ┣━本山内記
┣━本山又四郎
┣━女子
┗━女子
久万俊宗━━━久万俊政
本山養明 (?〜?)
本山家当主。永正五年豊かな長宗我部領を手に入れるため、山田氏、吉良氏らと共に岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討ち取った。
本山茂宗 (?〜1555年)
本山養明の子。本山城を子の茂辰に譲り、自身は朝倉城に居住。天文九年頃、弘岡に兵を進め、吉良氏を滅ぼす。天文十三年、高岡郡に攻め込み、一条氏と交戦。これに敗れ、撤退した。天文二十四年没。
本山茂定 (?〜?)
本山茂辰の叔父。朝倉城主。
本山親茂 (?〜?)
本山茂辰の長男。将監。母は長宗我部国親の娘。永禄五年九月十六日、長宗我部家との朝倉合戦で奮戦。見事、長宗我部軍を撃退。長宗我部元親が神田城に籠もると、これを攻める。攻め倦ねて城攻めを断念。この時、十六歳と云う。続く十八日にも元親は朝倉城攻めのため、神田城から出陣。本山茂辰軍と鴨部ノ宮付近で交戦。合戦は三十余度に渡り、本山一族二十三人、郎党八十五人、軍勢二百三十五人が討死。長宗我部軍は五百十一人が討死した。数からすれば本山家の勝利だが、これ以上の朝倉城防衛は困難であり、家中も城の処遇を巡って分裂。結局、永禄六年一月十日に茂辰は朝倉城を焼き、二十八日には本山城へ撤退した。こうして長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を嗣がせ、吉良峰城主とした。長宗我部家の土佐中部進出は成就したのだ。永禄七年、本山茂辰は本山城を捨て、瓜生野に撤退。長宗我部勢の追撃を受け、当初は競り合ったものの、次第に劣勢となる。やがて茂辰が病没。親茂は家督を継ぐも、元亀元年に降伏。元親も甥親茂を不憫に思うようになり、岡豊城下に住まわせた。弟は内記、又四郎。他に妹が二人いた。
本山内記 (?〜?)
本山茂辰の次男。本山親茂の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、吉良親貞の家臣として蓮池に所領を賜る。
本山又四郎 (?〜?)
本山茂辰の三男。本山親茂、内記の弟。母は長宗我部国親の娘。元親の甥であることから助命され、長宗我部家臣西和田越後の入り婿となる。西和田勝兵衛を名乗り、馬廻衆となった。岡豊城下西和田に居住した。
八木実茂 (?〜?)
本山一族。大永七年、朝倉池内天神社に棟札を与える。長宗我部家滅亡により、本山家の所領が鏡川を越えて朝倉にまで達したことを意味する。
井口勘解由 (?〜1560年)
土佐井口城主。長宗我部重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否。周孝に攻められるも、三百の兵で撃退。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死。居城も落とされた。
大高坂権頭 (?〜?)
土佐大高坂城主。後に長宗我部家臣となる。
久万俊宗 (?〜?)
土佐久万城主。豊後守。永禄三年、長宗我部勢に攻められ降伏。以降、長宗我部家臣となる。子は俊政。
神森出雲 (?〜1561年)
土佐神森城主。永禄四年、長宗我部家臣福留隼人、中島大和に攻められる。水を断たれるも、白米で馬を洗い、水の豊富さを演出。これを見た福留らは撤退するも、五名ほどが残り、城の北側から火を放つ。これにより城兵は錯乱し、出雲も自刃した。妻は脱出の際に谷に落ち、死没。後にその霊を慰めるため祠が建てられた。
秋山刑部丞 (?〜?)
土佐秋山城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄三年、長宗我部元親に降伏。
弘田伊賀守 (?〜?)
土佐芳原城主。天文九年、一条房冬に降伏。弘治三年、本山茂辰に降伏。永禄四年、長宗我部元親に降伏。
田上善衛門 (?〜?)
弘治二年、加田城番。
大窪美作守 (?〜?)
土佐長浜城主。永禄三年五月二十六日夜、土佐長浜城は長宗我部勢の攻撃で陥落した。
高橋壱岐守 (?〜?)
土佐雀ヶ森城主。
秦泉寺茂景 (?〜?)
土佐秦泉寺城主。掃部頭。弘治二年、長宗我部国親に攻められる。後に長宗我部元親に攻められ降伏。万々城に移された。
富家刑部 (?〜?)
弘治三年以降、土佐森山城番。永禄三年、長宗我部元親に降伏。以後も森山城を守る。
中島新介 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城攻めのため一宮に攻め込む。高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らもこれに加わる。泰泉寺方面も攻めるが、泰泉寺大和守らに迎撃され撤退。
竹中弥右衛門 (?〜?)
本山家臣。永禄年間頃の人。
宇賀平兵衛 (?〜1560年)
永禄三年、長宗我部家との合戦で浜田久左衛門を討つ。しかし、浜田久左衛門の弟善左衛門に討たれた。
中島新介 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
高石与七 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
岡崎与左衛門 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
桑川久助 (?〜?)
永禄六年五月、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。
【付記】
永禄三年五月二十六日、長浜城は長宗我部家の夜襲を受ける。長浜落城の報を受けた茂辰は二十七日、二千名を率いて出陣。戸ノ本にて長宗我部軍千余名と交戦。この合戦は「戸ノ本合戦」と呼ばれる。本山軍は数で勝っていたが敗れ、逆に逃げ込んだ浦戸城を包囲されてしまう。長宗我部軍は浦戸城攻めを諦め、撤退するも、敗戦によって家中は大きく動揺した。同年八月、一条氏に蓮池城を落とされた。
長宗我部国親━┳━長宗我部元親
┣━吉良親貞(吉良氏)
┗━女子
‖
本山養明━┳━本山茂宗━━━本山茂辰━┳━本山親茂
┗━本山茂定 ┣━本山内記
┣━本山又四郎
┣━女子
┗━女子
久万俊宗━━━久万俊政
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