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2019年12月29日

赤松時勝

赤松 時勝(あかまつ ときかつ)
室町時代中期の武将。
赤松満祐の甥に当たる。
満祐の実弟・赤松義雅の子。

時代
室町時代中期
生誕
永享5年(1433年)
死没
康正元年(1455年)
改名
千代丸、性尊
戒名
勝岳性尊
氏族
赤松氏
父母
父:赤松義雅、母:三条実量の娘?

赤松政則

生涯
父の義雅は嘉吉の乱で兄に協力して幕府軍の追討を受け、9月に城山城が落城すると寄せ手の一手を務めていた赤松一族の赤松満政に降参した。しかし、義雅は満祐の弟であるとして許されずに自害させられ、当時9歳だった時勝(千代丸)は満政の庇護を受けて室津に隠された。やがて満政の手配により、建仁寺の天隠龍沢に庇護され、その天隠により大納言の三条実量に身柄を渡され[1]、所領のあった近江浅井郡丁野村の成願寺で密かに養育された[2]。

はじめは僧侶として育てられたが、のちに還俗して時勝と名乗った。康正元年(1455年)に23歳で死去した[3]。

赤松家の家督は時勝の死の前後に生まれた息子の次郎法師丸(のちの政則)が継ぎ、彼の時代に赤松家は大名として再興する。

赤松義雅の子。母は『赤松盛衰記』などの史書では三条実量の女とされるが、赤松一族の者とする説もあり、不詳である。幼名は千代丸あるいは千松丸。
嘉吉元年(1441)に伯父・赤松満祐が将軍・足利義教を殺害して幕府軍の追討を受けたとき(嘉吉の乱)は7歳(一説には9歳)の少年であり、敗死を覚悟した父・義雅によって、追討軍に与した赤松一族の赤松満政に託された。
その後は母の実家・三条家の所領である近江国浅井郡丁野村の成願寺で出家して性存と号し、のちに還俗して時勝と名乗ったというのが通説であるが、母が赤松一族であるとの説に従えば、この伝承には疑問も残る。
しかし播磨国出身の禅僧・天隠龍沢の援助を受けて育ち、のちに時勝と名乗ったことは事実と見られる。
康正元年(1455)に21歳(一説には23歳)で早世したが、この時勝の遺児・法師丸(のちの赤松政則)が長じて赤松氏を再興した。
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