2019年12月09日
本山城
本山城(もとやまじょう)
本山城及び周辺城趾地図
この地の豪族本山氏の居城跡で、
標高は377.5m、
町並みからの比高130mの所に詰めの
段を構える山城である。
土佐の戦国時代、本山養明(ようめい)、茂宗(しげむね)梅慶(ばいけい)、茂辰(しげとき)と隆盛をきわめ、
「土佐戦国7守護」の一人に代々数えられた。
1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、
朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
しかし長宗我部との激しい攻防戦に敗れ、
本山城に撤退、
さらに瓜生野城に退き1571年頃に降った。
山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、
元の形をそこねているが、
詰めの段南尾根の堀切と、
その西側斜面にのびる堅堀は原形をとどめている。
また堀切から37mほど登ったところに
小規模な堀切も確認できる。
本山城及び周辺城趾地図
この地の豪族本山氏の居城跡で、
標高は377.5m、
町並みからの比高130mの所に詰めの
段を構える山城である。
土佐の戦国時代、本山養明(ようめい)、茂宗(しげむね)梅慶(ばいけい)、茂辰(しげとき)と隆盛をきわめ、
「土佐戦国7守護」の一人に代々数えられた。
1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、
朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
しかし長宗我部との激しい攻防戦に敗れ、
本山城に撤退、
さらに瓜生野城に退き1571年頃に降った。
山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、
元の形をそこねているが、
詰めの段南尾根の堀切と、
その西側斜面にのびる堅堀は原形をとどめている。
また堀切から37mほど登ったところに
小規模な堀切も確認できる。
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