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2017年01月16日

謎の史跡?隼人塚

国道10号線を鹿児島市内から国分方面へ、国分市街地の少し手前から左に入って、隼人駅のすぐ側に国定史跡「隼人塚」があります。
「古事記」「日本書記」「国土記」などに記載されている話によると、大和朝廷による反乱鎮圧のとき、殺された熊襲・隼人の霊が崇をなしたので、それを弔う意味もあって造られたとも伝えられています。
渡来人に駆逐された日本の先住民族だったのでしょう。他に類をみない特徴をあげてみると、
1.石塔3塔が並んでたっている。
2.各塔とも塔身軸部四方に仏像が彫られている。
3.四天王像が四方に立ち石塔3基を取り囲んでいる。
以上の事が特徴です。
国分尼寺の跡という説もあるようですが、その後は正国寺という寺の跡で、鹿児島神宮の桑幡公幸氏が「隼人塚---一名熊襲塚」と命名され、後に隼人塚と名付けられましたが、実のところ本当は何のモニュメントなのか、わかっておりません。以前は塔も倒れ荒れ果てていましたが近年復元され、立派な資料館も出来ました。

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2017年01月14日

若き薩摩の志士達を鍛えた「座禅石」

鹿児島市の城山団地にある座禅石。西郷、大久保らが青春時代に精神の鍛錬の為に、度々訪れた場所です。
後に明治維新の中心的役割を果たす彼らを暖かく見守り、多大な影響を与えた人物がいました。
鹿児島市草牟田誓光寺の住職、円了無参和尚(えんりょうむさんおしょう)という、城下南林寺や島津菩提寺の住職も務めた名僧で、「揺れ動く時代の中、座禅によって自分をみつめ直すことは、大きな時代の流れを見極める助けとなる」と教えた人物です。
無参和尚の教えを受けた若き志士たちは、有志組を結成し、後に精忠組と名を変え薩摩藩の中核として、明治維新を成し遂げます。
その中心にいたのは、西郷隆盛・大久保利通・有馬新七・海江田信義・伊地知貞馨・吉井友実・伊地知正治・税所篤・大山綱良・岩下方平などでした。
この中には寺田屋事件の有馬新七の名もあります。敵味方に分かれて戦った友もいます。当時の彼らは、自分たちが飲み込まれていった明治維新という名の大きな激動の波に、自らの将来を予想する事すら出来なかったでしょう。
薩摩の維新の裏には、このような悲しい話も沢山埋もれています。

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2017年01月13日

海軍カレーと東郷平八郎元帥

世界中の海軍で、その名を知られている、「東郷平八郎元帥」。彼もまた、加治屋町の生まれで西郷、大久保らの後輩に当たり、薩摩藩士として戊辰戦争にも参戦しています。
産声をあげたばかりの日本帝国連合艦隊の司令官として、当時世界最強といわれた帝政ロシアのバルチック艦隊と戦い、これに勝ったことで世界中の海軍関係者に知られる事となり、英国のネルソン提督とともに尊敬されています。
東郷は明治3年から11年迄英国に留学し、海軍の基礎から当時最高の作戦の立案等を学んで帰国しました。
帰国後は海軍の中でも一足飛びに出世をとげ、連合艦隊の司令官に任官した頃、英国で食べたビーフシチユーの味が忘れられず、調理担当に命じて作らせようとしました。
しかし調理担当者はビーフシチューなど見たことも食べた事も無く、東郷もうまく説明できません。そこでその調理担当者が想像力を駆使して作ったのが今の日本で普通に食べられているカレーとなりました。
現在の日本海上自衛隊でも、洋上勤務の時は金曜日の夕食はカレーと決まっているそうです。永い航海では時間の感覚がおかしくなって、曜日も忘れがちになる為、カレーがでてくると「今日は金曜日か」と解るようにしているのだそうです。
名将東郷平八郎がいなければ、カレーライスも存在しなかったのでしょうね。

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2017年01月12日

今も続く薩摩の伝統行事A

鹿児島の三大行事の二つ目は、「曽我どんの傘焼き」というものがあります。
市内を二分して流れる甲突川の砂州で、クリスマスツリーの様にやぐらを組み、そこに何百本の和傘を飾りつけ、最後にそれに火を付けて盛大に燃やすという伝統行事です。
暗くなってからフィナーレの点火までには、示現流の演舞や曽我兄弟の歌の歌い上げどがあり毎年6月後半〜7月の中旬までのいずれかの日に行われます。
そもそも曽我兄弟とはなんぞやと思われる方が大半でしょうが、非常に込み入った話なのでかなり端折らせてもらいます。時代は鎌倉時代、場所は相模の国での話です。領地をめぐる争いで父を殺された五郎、十郎の兄弟が長じて源頼朝の家臣になっていた憎き仇を、頼朝が行った鷹狩りに乗じて討ち、みごと武士の本懐をとげたことを称える行事です。
古事によれば兄弟が仇討ちを決行したのは夜で、仇を捜すのに持っていた傘に火を付けて松明代わりとして捜したと伝えられているからです。若き日の西郷、大久保達も参加した薩摩の国の古くからの行事なのです。
島津氏の祖先、惟宗氏は頼朝に仕える御家人だったので、この事件を間じかで体験したのではないでしょうか。
それが薩摩では代々受け継がれ、現代まで受け継がれ、このような行事になったのでしょう。

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今も続く薩摩の伝統行事@

鹿児島には「妙円寺参り」という伝統行事があります。
関ヶ原の戦いに参戦し、西軍の主力大名達の軍勢が次々と敗走するなか、「敵に背を向け逃げるは武士の道にあらず。」と、東軍がひしめくど真ん中に突撃しながら突破して、命からがら薩摩に帰ってきた、島津家代17代当主義弘公。彼は、少年〜青年期を過ごした伊集院の妙円寺を自らの菩提寺と定め、公が85歳で天寿を全うするとその地に墓所が建てられました。
鹿児島に住む城下士達は、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた前日、旧暦の9月14日の夜に伊集院の妙円寺に詣で、夜が明ける前に鹿児島城下まで戻り、なにくわぬ顔で普段通りに仕事をしたといいます。
義弘公の苦難を思えば、何の事も無い。という薩摩武士の心意気だったのでしょうか、大久保利通の青年時代の日記に「妙円寺参りに初めて参加し、感動した」という記載もあるそうです。
それにしても鹿児島市中心部から伊集院の妙円寺まで片道30キロ以上はあるでしょう。夜のうちに往復するのは大変なことだったでしょうが、毎年欠かさず幕末まで続きました。
現在でも様々なグループ単位で毎年続けられておられますが、さすがに往路は歩きで復路はバスという方々が多いようです。
妙円寺は明治2年の廃仏希釈令で廃寺になり、代わりに徳重神社が建てられました。義弘公は豪放でありながら義に厚い方で、藩士達からもとても慕われていたといわれます。薩摩藩でも当時、殉死禁止令が出ていたにも関らず、13名もの藩士が義弘公の後を追い、殉死されました。
徳重神社の境内に13基の供養塔が並んでおり、殉死された方々の名前がそれぞれに刻まれています。

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若くして散って逝かれた英霊達へのレクイエム

特攻基地と武家屋敷の町として、県外の方々にもよく知られている知覧。
市町村合併で、今では南九州市知覧になりましたが、団体旅行では外せない町です。
特攻基地=知覧と認識されている方が多いと思いますが、太平洋戦争末期沖縄に集結したアメリカの膨大な艦船に向かい、重い爆弾を抱いて出撃していかれた特攻基地は鹿児島県内にいくつも有りました。
万世、出水、国分、串良、鹿屋等、宮崎県都城からも出撃していかれたのです。
なぜ南九州だけから特攻出撃が成されたのか?理由は単純です。敗戦色が色濃くなってきたこの時期、国内に飛行機を飛ばす為の燃料は底をつきかけており、沖縄までもっとも少ない燃料ですむからです。
知覧から出撃された御霊は1.036名です。しかし数からいくと一番多く出撃されたのは鹿屋の基地からで2.000名を越えます。彼ら飛行機乗りは国内はおろか台湾、韓国、中国等の基地から南九州の各基地に集められ、一時の時間を過ごされ、オンボロ飛行機にぎりぎり沖縄まで飛ぶことが出来る片道分の燃料と500キロ爆弾を腹に抱えて、帰る事の無い南の海へ撃飛び立って逝かれたのです。
知覧が有名になったのは、通称特攻の母「鳥浜トメさん」の存在が大きいでしょう。当時知覧で唯一の軍の認定をうけた富屋食堂を経営しておられ、そこはいつ出撃命令が出るか分からない隊員達が酒を飲み騒ぐことで死の恐怖をいっときでも忘れる事ができる場所でした。
遠くの県の出身者のほとんどは、肉親と最後の別れもできず出撃の日を迎えるなか、若い隊員達はトメさんに母親の面影を投影していたのでしょう。
しかし、トメさんにとってはとても残酷な日々でした。毎晩のようにお店に来て、名前も憶え「おばちゃん、おばちゃん」と慕ってくれていた隊員達が毎日のように出撃していくのです。
いったいどれほどの涙を流されたのか、察するに余りあります。また隊員達も、特攻という名を借りた自殺命令を心の中でどう決着をつけて出撃していかれたのでしょうか。
当時の帝国主義国家が都合よく作りだした絵空事、「戦争で死んだ者は軍神となり、その御霊は永遠に靖国神社に祀られる。」という言葉を無理やり自分の心に動議付けされて逝かれたのでしょうか。
出撃の前に別れの水盃を交わし、気丈にも笑顔で敬礼しながら「靖国でまた合おう」を最後の言葉に、出撃して逝かれた特攻隊員の無念さはいかばかりのものだったのか、考えるだけで涙を禁じえません。諸外国からの圧力がどうあろうとが日本という国が存続する限り、その時々の政府は靖国を守っていく責任があるのではないでしょうか。
私は10回以上特攻平和会館を訪れていますが、今でも戦争の犠牲になり散っていかれた若者達の遺書を読んでいくと涙が止まりません。平和日本の礎となられた若者達の気持ちを受け止め、二度とあのような戦争を起こさせない為にも一人でも多くの方々に訪れていただきたいとおもいます。

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2017年01月11日

おかしむぜ?

鹿児島市内にお堀と石垣が、かつての名残をとどめる鶴丸城跡、石垣の内側には県立の博物館である黎明館、県立図書館、市立美術館等の公共施設が建っています。
その市立美術館の敷地正面入り口(国道に面した方です。)を入り、左に行くと木々が生い茂る涼やかな一角があり、よく見るとに人の顔が描かれた石があります。
これは島津家16代当主、義久の三女で18代当主家久に嫁いだ亀寿様を偲んで作られた石像です。
16代義久と18代家久は異母兄弟になります。ちなみに関ヶ原の戦いに参戦した17代当主義弘も義久、家久と異母兄弟にあたります。
亀寿様はのちに持明院(じみょういん)という法名を名乗り、それが薩摩言葉でなまって「じめさぁ」と呼ばれるようになりました。伝聞として伝わっているのは、器量には恵まれなかったが、慈愛の心と思いやりをもった、素晴らしい方で家来達からも慕われていたようです。
命日の10月5日には、毎年選ばれた市役所の女性職員の手で、お化粧することが習わしになっています。
ところで、薩摩弁では器量のよい女性を「よかおごじょ」と呼びますが、反対語として「おかしむぜ」という言葉があります。美人ではないが、愛嬌のあるかわいい女性の事をこう呼ぶのですが、どちらかといえば褒め言葉で、「結婚するならよかおごじょよりおかしむぜをもろやんせ」と昔から言われています。「じめさぁ」もきっとそんなおかしむぜな方だったのでしょう。

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幻の宰相 小松帯刀を偲ぶ

町村合併により旧伊集院町は、隣接していた日吉町、吹上町と共に日置市となりました。
これまで県外の観光客の方々にはほとんど縁の無い町でしたが、幕末から明治維新にかけての歴史に日が当たり、この地にも次第に目が向けられるようになってきました。
伊集院町の商店街から歩いていける所に「有馬新七」の墓があります。
伊集院郷士の子として生まれ、長じては京都において西郷、大久保らと共に討幕活動に大きな働きをしました。
しかし、志し半ば1862年に京都の寺田屋で38歳の生涯を閉じました。
京都の伏見大黒寺に埋葬されて墓も有るそうですが、故郷伊集院の墓は通称「陰墓」といって、親族や国許の仲間達が偲んで建てた墓です。
そこから車で20分程の所に「吉利」という土地があり、大河ドラマ篤姫をご覧になられた方ならご存知の尚五郎さんこと「小松帯刀」の墓があります。
喜入の肝付家(こちらも歴史ある名家です)より養子として小松家に入った人ですが、その小松家の領地が旧日吉町の吉利にあり、菩提寺だった園林寺跡に歴代当主の墓が並んでいます。
帯刀が29代当主だったということは家格の高さを知らされます。
激動の時代に生きた彼の働きはいまさら言うこともありませんが、明治3年に36歳の若さで病に倒れた事は、共に維新を戦いぬいた仲間達から非常に惜しまれました。
彼がもう少し永く生きていたら、間違いなく新政府の指導者になっていたでしょう。歴史に「たら、れば」は禁物ですが、ひょっとしたら西南戦争も起こらず、西郷どん達も城山で死ぬこともなかったかもしれませんね。

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2017年01月10日

新時代の礎となった、薩摩藩英国留学生達

県外から新幹線や列車で鹿児島市に来られる方々が、最初に降り立つ、鹿児島中央駅の写真です。
隣接するアミュプラザという商業施設ビルの屋上には観覧車が設置されています。駅ビルに観覧車が付いている駅って珍しいですね。博多にもあるのかな?この観覧車には対角線に2箱だけ全面透明の物があり、その箱に乗るとかなりスリリングな体験ができます。
駅前広場には「若き薩摩の群像」と名ずけられたモニュメントが有ります。これは1865年、幕府に隠れて薩摩藩が英国に留学させた若者達の群像です。
彼らはイギリスでロンドン大学に入学し多くの事を学び、その後フランスやアメリカ迄渡った者もいました。
帰国後はそれぞれ、明治時代の日本近代化の中心として貢献しました。
よく知られているのはサッポロビールの生みの親、村橋久成などがいますね。しかしこの中で一人だけ帰国しなかった者がいます。長沢鼎(ナガサワカナメ)。彼は薩摩を出たとき13歳という若さでした。イギリスからアメリカ渡り、ワイン造りに向いた土地を探して転々とし、ついにカリフォルニアにたどり着き、ブドウ栽培からワインを製造するワイナリーの経営を始めました。彼のワイナリーは日増しに大きくなり、「ブドウ王」と呼ばれるほどの富と名声を手にいれましたが、ついに日本へ帰ることなく彼の地で生涯を終えました。
昔の薩摩人の気骨とグローバルな精神を持った人がいたんですね。

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2017年01月09日

鹿児島版一休さん(日当山侏儒どん)

一休さんのトンチ話、似たようなものが全国各地に語り継がれていますね。
大分の「キッチョムさん」、熊本の「彦一さん」等が有名ですが、鹿児島にも「日当山侏儒どん」という人のトンチ話が伝わっています。
鹿児島にも「日当山侏儒どん」という人のトンチ話が伝わっています。実在した人物で、本名は徳田太兵衛といい、薩摩藩18代藩主島津家久に仕えた武士でした。生まれた時から身体が小さく、父が大きく育ちますようにとの願いを込めて「太兵衛」と名づけましたが、そのかいもなく成人してからも身長が三尺(90cm)しかなかったといわれています。
身体は小さいが、負けん気が強く、ユーモアのセンスが有り、家系も武士としては最下級の家柄でしたが、藩主家久に気に入られてたびたびお城に呼ばれるようになります。家久も藩主としてのストレスを太兵衛のとっぴも無い笑い話を聞くことで癒していたのでしょうか。
後年、大抜擢をうけ日当山(現在は霧島市の一部)の地頭職になりました。日当山の住民達も彼の飾らない人柄を愛し、いつの間にか「日当山侏儒どん」と呼ばれるようになりました。
400年ほども昔に生きた人ですが、その逸話は100以上伝えられ書物になっています。鹿児島市内の大きな本屋なら郷土関係の欄にいくつか置いてあると思います。是非一読をお勧めします。

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