2017年01月11日
幻の宰相 小松帯刀を偲ぶ
町村合併により旧伊集院町は、隣接していた日吉町、吹上町と共に日置市となりました。
これまで県外の観光客の方々にはほとんど縁の無い町でしたが、幕末から明治維新にかけての歴史に日が当たり、この地にも次第に目が向けられるようになってきました。
伊集院町の商店街から歩いていける所に「有馬新七」の墓があります。
伊集院郷士の子として生まれ、長じては京都において西郷、大久保らと共に討幕活動に大きな働きをしました。
しかし、志し半ば1862年に京都の寺田屋で38歳の生涯を閉じました。
京都の伏見大黒寺に埋葬されて墓も有るそうですが、故郷伊集院の墓は通称「陰墓」といって、親族や国許の仲間達が偲んで建てた墓です。
そこから車で20分程の所に「吉利」という土地があり、大河ドラマ篤姫をご覧になられた方ならご存知の尚五郎さんこと「小松帯刀」の墓があります。
喜入の肝付家(こちらも歴史ある名家です)より養子として小松家に入った人ですが、その小松家の領地が旧日吉町の吉利にあり、菩提寺だった園林寺跡に歴代当主の墓が並んでいます。
帯刀が29代当主だったということは家格の高さを知らされます。
激動の時代に生きた彼の働きはいまさら言うこともありませんが、明治3年に36歳の若さで病に倒れた事は、共に維新を戦いぬいた仲間達から非常に惜しまれました。
彼がもう少し永く生きていたら、間違いなく新政府の指導者になっていたでしょう。歴史に「たら、れば」は禁物ですが、ひょっとしたら西南戦争も起こらず、西郷どん達も城山で死ぬこともなかったかもしれませんね。
これまで県外の観光客の方々にはほとんど縁の無い町でしたが、幕末から明治維新にかけての歴史に日が当たり、この地にも次第に目が向けられるようになってきました。
伊集院町の商店街から歩いていける所に「有馬新七」の墓があります。
伊集院郷士の子として生まれ、長じては京都において西郷、大久保らと共に討幕活動に大きな働きをしました。
しかし、志し半ば1862年に京都の寺田屋で38歳の生涯を閉じました。
京都の伏見大黒寺に埋葬されて墓も有るそうですが、故郷伊集院の墓は通称「陰墓」といって、親族や国許の仲間達が偲んで建てた墓です。
そこから車で20分程の所に「吉利」という土地があり、大河ドラマ篤姫をご覧になられた方ならご存知の尚五郎さんこと「小松帯刀」の墓があります。
喜入の肝付家(こちらも歴史ある名家です)より養子として小松家に入った人ですが、その小松家の領地が旧日吉町の吉利にあり、菩提寺だった園林寺跡に歴代当主の墓が並んでいます。
帯刀が29代当主だったということは家格の高さを知らされます。
激動の時代に生きた彼の働きはいまさら言うこともありませんが、明治3年に36歳の若さで病に倒れた事は、共に維新を戦いぬいた仲間達から非常に惜しまれました。
彼がもう少し永く生きていたら、間違いなく新政府の指導者になっていたでしょう。歴史に「たら、れば」は禁物ですが、ひょっとしたら西南戦争も起こらず、西郷どん達も城山で死ぬこともなかったかもしれませんね。
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