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2017年03月01日

西南戦争について考えるA


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二十人以上、川路の配下の薩摩人がいっぺんに一時帰国?したら、誰でも怪しいむ

と思いますが、私学校党の若者達が問い詰めたところ、やはり川路が放った密偵で、

しかも機会があれば西郷暗殺の任を帯びていた事が、明らかになりました。

血気に燃える私学校党の若者達の一部が先走り、鹿児島市草牟田に在った陸軍の

火薬庫(武器貯蔵所)を襲い、武器・弾薬を奪ったという報告をうけ、西郷は愕然とします。

こうなったら、薩摩が反乱を企てていると思われても釈明のしようがありません。

不平士族達の暴走を誰よりも気にかけていた彼は、自分なりの責任のとり方として、

反乱軍のリーダーに担がれる事を受け止めました。

但し、自らは移動中は籠に乗り、駐屯地でも奥の座敷に一人篭り、誰とも顔を合わせずに

まるで生き幽霊のようだったと伝えられています。

部隊の編成や作戦にも一切口を挟まず、桐野・篠原らに任せた為、この戦いは別名

「桐野の戦争」とも呼ばれました。

西南戦争は、薩摩が自ら挙兵したのではなく、大久保・川路が扇動して起こさせた

戦争だったというのが定説になっています。   (続く)

319.JPG











2017年02月26日

西郷隆盛の子孫達B


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数年前に、「西郷隆夫」さんが、鹿児島の会社の社長さんから口説かれ、

その会社の副社長として、鹿児島に帰ってこられました。

神戸生まれの神戸育ち、若くして大丸デパートの仕入れ部長をされていた

バリバリのビジネスマンだった方です。

その頃から、FBで薩摩の歴史についての記事ばかり書いていた私の記事が

目にとまったようで、彼からの誘いで一緒に飲んだのもその頃です。

以来、親しくお付き合いさせていただいておりますが、話好きな良い方です。

その後一年も経たないうちに、その会社の社長さんが会社を売却される事に

なり、それを期に自分の会社を立ち上げられました。

K10カフェの他に、講演活動に力を入れておられ、月の半分以上は全国を飛び回って

おられます。「西郷隆盛」の子孫としての公式行事も隆文さんの意向で、少しずつ

譲られておらるようです。

ちなみに隆夫さんのお父さんは、西郷隆盛と糸子婦人の間に生まれた長男の「寅太郎」

で、隆夫さんも西郷隆盛の曾孫にあたります。(続く)

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2017年02月25日

西郷隆盛の子孫達A


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野屋敷でひっそりと暮らしていた糸子婦人と子供たちでしたが、

手引きしてくれる人がいて、薩摩を離れて神戸に移住しました。

この時点で、西郷隆盛の子孫は鹿児島には一人も居なくなり、

子供達も大人になると、それぞれの道に進み、大阪や奈良・東京に

移住していきました。

それから随分と時が経ち、終戦後になって「西郷隆文」さんが五歳のときに

家族とともに奈良から鹿児島に帰ってこられました。

鹿児島で育ち、東京の会社に就職されましたが、25歳の時に帰鹿されて陶芸の

道に進まれ、現在は日置市で「南州窯」という窯元を経営されておられます。

隆文さんは、菊次郎の孫で西郷隆文の曾孫にあたります。

数年前まで、西郷隆盛の子孫=隆文さんという時代が続き、公共の場での

イベントなどには隆文さんが代表として出席される状態でした。

お一人で「子孫代表」を背負われて、大変な事だったと思います。(続く)

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西郷隆盛の子孫達@


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明治10年9月24日に没した「西郷隆盛」の子孫はどうなったのか?

近頃は、地元の人も知らない方が増えてきたので、何回かに分けて

書いてみたいと思います。

西南戦争の間、留守を預かる妻の糸子婦人の元には、奄美大島に流されて

いた時に「愛加那」との間に儲けた「菊次郎・菊子」の二人、糸さんとの

間に儲けた「寅太郎・牛次郎・酉三」の三人の合計五人の子供たちがいました。

西南戦争が終わり、夫が「賊軍の将」とされてしまったので、残された家族にも

類が及ぶかもしれないということで、鹿児島市西別府の人里離れた粗末な小屋で

畑仕事をしながら数年の間、隠れるようにして暮らしていました。

現在は建物はありませんが、「西郷野屋敷跡」として名残りをとどめています。(続く)










2017年01月30日

鹿児島出身の彫刻家「安藤 照」

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彫刻家、安藤照は、1892年(明治25年)に、鹿児島市新屋敷町に生まれました。
東京美術学校在学中に、帝国美術(帝展)に入選。その後、「流れ」「芽生え」「踊りの構図」「大空へ」が、次々に特選になり、「大空へ」は第一回帝国美術院賞を受けました。
さらには、帝展委員、審査委員と歴任し、日本を代表する彫刻家にまで上り詰めました。
その後、彫刻の本能的な量感の表現を主張し、1929年(昭和4年)塊人社を結成し、様々な素晴らしい作品を生み出しましたが、代表作は何と言っても、鹿児島市に立つ、西郷隆盛像でしょう。
陸軍の軍服姿で、桜島の方を向いて立つ姿は威厳にみちています。
ちなみに、東京の渋谷駅前広場にある「忠犬ハチ公像」も彼の作品です。
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2017年01月24日

陸軍の近代化に捧げた生涯。

鹿児島城下、下加治屋町に生まれた大山巌(いわお)。
「ナポレオン以来の戦略家」「ブルドッグの如き猛将」「人格はグランド将軍、戦略はリー、ジャンクソンの両将軍に伍する」日露戦争で満州軍総司令官として、奉天大会戦に勝利した大山巌元帥の名声は、世界を駆け巡りました。
1842年(天保13年)生まれ、幼名は、岩太郎、後に弥介改め大山は、西郷隆盛が郷中頭を務める下加治屋町で育ちました。西郷隆盛とは母親同士が姉妹で、従兄弟にあたります。
西郷の弟、従道(じゅうどう)とは特に仲がよく、血気にはやり過ぎて謹慎を命ぜられたり、薩英戦争ではスイカ売りに化けての決死隊に加わるなど、ボッケモンとしての逸話が多く残されています。
維新後、砲術を学び陸軍に身をおいた大山は、フランス留学の後、陸軍の近代化につとめ、初代陸軍大臣に就任。日清・日露の両戦争の活躍によって元帥公爵という最高の地位を与えられました。
東洋の豪傑のイメージとは逆に、ハイカラを好み、豪壮なシュロス(西洋城)にすみという生活ぶりでした。1916年(大正5年)に75歳で永眠、国葬によって那須(栃木県)に葬られました。
日本陸軍の創設、近代化に捧げた生涯でしたが、西南戦争で西郷隆盛ら薩摩の同胞達と、敵味方に別れて戦わざるおえなかったことを終生気にしており、二度と薩摩に帰ることはありませんでした。
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