2017年03月01日
西南戦争について考える②
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二十人以上、川路の配下の薩摩人がいっぺんに一時帰国?したら、誰でも怪しいむ
と思いますが、私学校党の若者達が問い詰めたところ、やはり川路が放った密偵で、
しかも機会があれば西郷暗殺の任を帯びていた事が、明らかになりました。
血気に燃える私学校党の若者達の一部が先走り、鹿児島市草牟田に在った陸軍の
火薬庫(武器貯蔵所)を襲い、武器・弾薬を奪ったという報告をうけ、西郷は愕然とします。
こうなったら、薩摩が反乱を企てていると思われても釈明のしようがありません。
不平士族達の暴走を誰よりも気にかけていた彼は、自分なりの責任のとり方として、
反乱軍のリーダーに担がれる事を受け止めました。
但し、自らは移動中は籠に乗り、駐屯地でも奥の座敷に一人篭り、誰とも顔を合わせずに
まるで生き幽霊のようだったと伝えられています。
部隊の編成や作戦にも一切口を挟まず、桐野・篠原らに任せた為、この戦いは別名
「桐野の戦争」とも呼ばれました。
西南戦争は、薩摩が自ら挙兵したのではなく、大久保・川路が扇動して起こさせた
戦争だったというのが定説になっています。 (続く)
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