2017年03月02日
西南戦争について考えるB
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西郷と大久保は仲が良くなかった?
これも鹿児島の歴史好きのなかでは定説になっています。
彼らの言葉を借りると、同じ加治屋町郷中で生まれ育った
「幼馴染」と思われていますが、実際には、大久保が生まれ育ったのは
少し離れた荒田町です。
当時の薩摩藩は、方限(ほうぎり)といって、武士の住む集落を
いくつかの集落に分け、郷中教育もその単位ごとに行われていました。
青年になってから加治屋町に引っ越してきた大久保との間に、特別な
感情は無かったのだと思います。
明治維新を成し遂げる上で、大きな功績を残した薩摩の重鎮二人ですが、
「名誉もいらず、名もいらず」を実践した西郷に対し、大久保は俗物だった
のでしょう。西郷が生きている限り、日本政界のトップにはなれないという
理由で、意図的に乱を起こさせたのだという説が正しいように思えます。
熊本城攻めに時間をとられているうちに、官軍の援軍が続々と船で着いた
北九州から南下してきて戦線が拡大して、田原坂から吉次峠と激戦になり、
双方、多数の戦死者を出しますが、数に勝る官軍に押され、薩摩軍は退却戦に
移らざるをえなくなりました。官軍から追われながら、人吉から小林へ移動し、
そこから宮崎市へ出ましたが、ここでも官軍に押され北上延岡に達しました。
ここで敗北を覚悟した薩軍は西郷の名で解軍宣言をし、生き延びてきた大部分の兵を
降伏させました。 (続く)
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