2017年01月12日
若くして散って逝かれた英霊達へのレクイエム
特攻基地と武家屋敷の町として、県外の方々にもよく知られている知覧。
市町村合併で、今では南九州市知覧になりましたが、団体旅行では外せない町です。
特攻基地=知覧と認識されている方が多いと思いますが、太平洋戦争末期沖縄に集結したアメリカの膨大な艦船に向かい、重い爆弾を抱いて出撃していかれた特攻基地は鹿児島県内にいくつも有りました。
万世、出水、国分、串良、鹿屋等、宮崎県都城からも出撃していかれたのです。
なぜ南九州だけから特攻出撃が成されたのか?理由は単純です。敗戦色が色濃くなってきたこの時期、国内に飛行機を飛ばす為の燃料は底をつきかけており、沖縄までもっとも少ない燃料ですむからです。
知覧から出撃された御霊は1.036名です。しかし数からいくと一番多く出撃されたのは鹿屋の基地からで2.000名を越えます。彼ら飛行機乗りは国内はおろか台湾、韓国、中国等の基地から南九州の各基地に集められ、一時の時間を過ごされ、オンボロ飛行機にぎりぎり沖縄まで飛ぶことが出来る片道分の燃料と500キロ爆弾を腹に抱えて、帰る事の無い南の海へ撃飛び立って逝かれたのです。
知覧が有名になったのは、通称特攻の母「鳥浜トメさん」の存在が大きいでしょう。当時知覧で唯一の軍の認定をうけた富屋食堂を経営しておられ、そこはいつ出撃命令が出るか分からない隊員達が酒を飲み騒ぐことで死の恐怖をいっときでも忘れる事ができる場所でした。
遠くの県の出身者のほとんどは、肉親と最後の別れもできず出撃の日を迎えるなか、若い隊員達はトメさんに母親の面影を投影していたのでしょう。
しかし、トメさんにとってはとても残酷な日々でした。毎晩のようにお店に来て、名前も憶え「おばちゃん、おばちゃん」と慕ってくれていた隊員達が毎日のように出撃していくのです。
いったいどれほどの涙を流されたのか、察するに余りあります。また隊員達も、特攻という名を借りた自殺命令を心の中でどう決着をつけて出撃していかれたのでしょうか。
当時の帝国主義国家が都合よく作りだした絵空事、「戦争で死んだ者は軍神となり、その御霊は永遠に靖国神社に祀られる。」という言葉を無理やり自分の心に動議付けされて逝かれたのでしょうか。
出撃の前に別れの水盃を交わし、気丈にも笑顔で敬礼しながら「靖国でまた合おう」を最後の言葉に、出撃して逝かれた特攻隊員の無念さはいかばかりのものだったのか、考えるだけで涙を禁じえません。諸外国からの圧力がどうあろうとが日本という国が存続する限り、その時々の政府は靖国を守っていく責任があるのではないでしょうか。
私は10回以上特攻平和会館を訪れていますが、今でも戦争の犠牲になり散っていかれた若者達の遺書を読んでいくと涙が止まりません。平和日本の礎となられた若者達の気持ちを受け止め、二度とあのような戦争を起こさせない為にも一人でも多くの方々に訪れていただきたいとおもいます。
FUJIFILM製ナノアスタキサンチンを高濃度配合
市町村合併で、今では南九州市知覧になりましたが、団体旅行では外せない町です。
特攻基地=知覧と認識されている方が多いと思いますが、太平洋戦争末期沖縄に集結したアメリカの膨大な艦船に向かい、重い爆弾を抱いて出撃していかれた特攻基地は鹿児島県内にいくつも有りました。
万世、出水、国分、串良、鹿屋等、宮崎県都城からも出撃していかれたのです。
なぜ南九州だけから特攻出撃が成されたのか?理由は単純です。敗戦色が色濃くなってきたこの時期、国内に飛行機を飛ばす為の燃料は底をつきかけており、沖縄までもっとも少ない燃料ですむからです。
知覧から出撃された御霊は1.036名です。しかし数からいくと一番多く出撃されたのは鹿屋の基地からで2.000名を越えます。彼ら飛行機乗りは国内はおろか台湾、韓国、中国等の基地から南九州の各基地に集められ、一時の時間を過ごされ、オンボロ飛行機にぎりぎり沖縄まで飛ぶことが出来る片道分の燃料と500キロ爆弾を腹に抱えて、帰る事の無い南の海へ撃飛び立って逝かれたのです。
知覧が有名になったのは、通称特攻の母「鳥浜トメさん」の存在が大きいでしょう。当時知覧で唯一の軍の認定をうけた富屋食堂を経営しておられ、そこはいつ出撃命令が出るか分からない隊員達が酒を飲み騒ぐことで死の恐怖をいっときでも忘れる事ができる場所でした。
遠くの県の出身者のほとんどは、肉親と最後の別れもできず出撃の日を迎えるなか、若い隊員達はトメさんに母親の面影を投影していたのでしょう。
しかし、トメさんにとってはとても残酷な日々でした。毎晩のようにお店に来て、名前も憶え「おばちゃん、おばちゃん」と慕ってくれていた隊員達が毎日のように出撃していくのです。
いったいどれほどの涙を流されたのか、察するに余りあります。また隊員達も、特攻という名を借りた自殺命令を心の中でどう決着をつけて出撃していかれたのでしょうか。
当時の帝国主義国家が都合よく作りだした絵空事、「戦争で死んだ者は軍神となり、その御霊は永遠に靖国神社に祀られる。」という言葉を無理やり自分の心に動議付けされて逝かれたのでしょうか。
出撃の前に別れの水盃を交わし、気丈にも笑顔で敬礼しながら「靖国でまた合おう」を最後の言葉に、出撃して逝かれた特攻隊員の無念さはいかばかりのものだったのか、考えるだけで涙を禁じえません。諸外国からの圧力がどうあろうとが日本という国が存続する限り、その時々の政府は靖国を守っていく責任があるのではないでしょうか。
私は10回以上特攻平和会館を訪れていますが、今でも戦争の犠牲になり散っていかれた若者達の遺書を読んでいくと涙が止まりません。平和日本の礎となられた若者達の気持ちを受け止め、二度とあのような戦争を起こさせない為にも一人でも多くの方々に訪れていただきたいとおもいます。
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