2017年01月12日
今も続く薩摩の伝統行事@
鹿児島には「妙円寺参り」という伝統行事があります。
関ヶ原の戦いに参戦し、西軍の主力大名達の軍勢が次々と敗走するなか、「敵に背を向け逃げるは武士の道にあらず。」と、東軍がひしめくど真ん中に突撃しながら突破して、命からがら薩摩に帰ってきた、島津家代17代当主義弘公。彼は、少年〜青年期を過ごした伊集院の妙円寺を自らの菩提寺と定め、公が85歳で天寿を全うするとその地に墓所が建てられました。
鹿児島に住む城下士達は、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた前日、旧暦の9月14日の夜に伊集院の妙円寺に詣で、夜が明ける前に鹿児島城下まで戻り、なにくわぬ顔で普段通りに仕事をしたといいます。
義弘公の苦難を思えば、何の事も無い。という薩摩武士の心意気だったのでしょうか、大久保利通の青年時代の日記に「妙円寺参りに初めて参加し、感動した」という記載もあるそうです。
それにしても鹿児島市中心部から伊集院の妙円寺まで片道30キロ以上はあるでしょう。夜のうちに往復するのは大変なことだったでしょうが、毎年欠かさず幕末まで続きました。
現在でも様々なグループ単位で毎年続けられておられますが、さすがに往路は歩きで復路はバスという方々が多いようです。
妙円寺は明治2年の廃仏希釈令で廃寺になり、代わりに徳重神社が建てられました。義弘公は豪放でありながら義に厚い方で、藩士達からもとても慕われていたといわれます。薩摩藩でも当時、殉死禁止令が出ていたにも関らず、13名もの藩士が義弘公の後を追い、殉死されました。
徳重神社の境内に13基の供養塔が並んでおり、殉死された方々の名前がそれぞれに刻まれています。
関ヶ原の戦いに参戦し、西軍の主力大名達の軍勢が次々と敗走するなか、「敵に背を向け逃げるは武士の道にあらず。」と、東軍がひしめくど真ん中に突撃しながら突破して、命からがら薩摩に帰ってきた、島津家代17代当主義弘公。彼は、少年〜青年期を過ごした伊集院の妙円寺を自らの菩提寺と定め、公が85歳で天寿を全うするとその地に墓所が建てられました。
鹿児島に住む城下士達は、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた前日、旧暦の9月14日の夜に伊集院の妙円寺に詣で、夜が明ける前に鹿児島城下まで戻り、なにくわぬ顔で普段通りに仕事をしたといいます。
義弘公の苦難を思えば、何の事も無い。という薩摩武士の心意気だったのでしょうか、大久保利通の青年時代の日記に「妙円寺参りに初めて参加し、感動した」という記載もあるそうです。
それにしても鹿児島市中心部から伊集院の妙円寺まで片道30キロ以上はあるでしょう。夜のうちに往復するのは大変なことだったでしょうが、毎年欠かさず幕末まで続きました。
現在でも様々なグループ単位で毎年続けられておられますが、さすがに往路は歩きで復路はバスという方々が多いようです。
妙円寺は明治2年の廃仏希釈令で廃寺になり、代わりに徳重神社が建てられました。義弘公は豪放でありながら義に厚い方で、藩士達からもとても慕われていたといわれます。薩摩藩でも当時、殉死禁止令が出ていたにも関らず、13名もの藩士が義弘公の後を追い、殉死されました。
徳重神社の境内に13基の供養塔が並んでおり、殉死された方々の名前がそれぞれに刻まれています。
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