2017年01月12日
今も続く薩摩の伝統行事A
鹿児島の三大行事の二つ目は、「曽我どんの傘焼き」というものがあります。
市内を二分して流れる甲突川の砂州で、クリスマスツリーの様にやぐらを組み、そこに何百本の和傘を飾りつけ、最後にそれに火を付けて盛大に燃やすという伝統行事です。
暗くなってからフィナーレの点火までには、示現流の演舞や曽我兄弟の歌の歌い上げどがあり毎年6月後半〜7月の中旬までのいずれかの日に行われます。
そもそも曽我兄弟とはなんぞやと思われる方が大半でしょうが、非常に込み入った話なのでかなり端折らせてもらいます。時代は鎌倉時代、場所は相模の国での話です。領地をめぐる争いで父を殺された五郎、十郎の兄弟が長じて源頼朝の家臣になっていた憎き仇を、頼朝が行った鷹狩りに乗じて討ち、みごと武士の本懐をとげたことを称える行事です。
古事によれば兄弟が仇討ちを決行したのは夜で、仇を捜すのに持っていた傘に火を付けて松明代わりとして捜したと伝えられているからです。若き日の西郷、大久保達も参加した薩摩の国の古くからの行事なのです。
島津氏の祖先、惟宗氏は頼朝に仕える御家人だったので、この事件を間じかで体験したのではないでしょうか。
それが薩摩では代々受け継がれ、現代まで受け継がれ、このような行事になったのでしょう。
市内を二分して流れる甲突川の砂州で、クリスマスツリーの様にやぐらを組み、そこに何百本の和傘を飾りつけ、最後にそれに火を付けて盛大に燃やすという伝統行事です。
暗くなってからフィナーレの点火までには、示現流の演舞や曽我兄弟の歌の歌い上げどがあり毎年6月後半〜7月の中旬までのいずれかの日に行われます。
そもそも曽我兄弟とはなんぞやと思われる方が大半でしょうが、非常に込み入った話なのでかなり端折らせてもらいます。時代は鎌倉時代、場所は相模の国での話です。領地をめぐる争いで父を殺された五郎、十郎の兄弟が長じて源頼朝の家臣になっていた憎き仇を、頼朝が行った鷹狩りに乗じて討ち、みごと武士の本懐をとげたことを称える行事です。
古事によれば兄弟が仇討ちを決行したのは夜で、仇を捜すのに持っていた傘に火を付けて松明代わりとして捜したと伝えられているからです。若き日の西郷、大久保達も参加した薩摩の国の古くからの行事なのです。
島津氏の祖先、惟宗氏は頼朝に仕える御家人だったので、この事件を間じかで体験したのではないでしょうか。
それが薩摩では代々受け継がれ、現代まで受け継がれ、このような行事になったのでしょう。
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