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2017年01月27日

初代文部大臣「森有礼」


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前回の記事、春日神社のすぐそばに、森有礼(もりあれい)の生誕地が在ります。
1885年(明治18年)わが国、初の伊藤博文内閣成立の時、その国際的見識をかわれて初代文部大臣に就任したのが森有礼です。
彼はドイツの教育制度を参考に、小学校から帝国大学までの学校制度を整えました。「国家に役立つ人間をつくる」という彼の信念が、第2次世界大戦までのわが国の教育を方向づけたのです。
若くして海外事情に目覚めた森は、17歳の時、五代友厚らと共に、総勢19名からなる薩摩藩西洋使節派遣留学生に選ばれ渡欧しました。
帰国後は新政府の外交官として、清国やアメリカに駐在しました。このような、海外経験から、彼は常に文明開化の先頭に立ち、閉鎖的な思想を批判し、西洋文化を紹介し広めることに努めました。
廃刀論・信仰の自由・男女同権・一夫一婦制、さらには「英語を国語に」という提言や、西洋風の結婚パーティ、契約結婚の実行など当時としては極めつけのハイカラさんだったようです。
ところが、時代はまだそんな彼を受け入れず、「伊勢神宮参拝で不敬行為があった」と噂され、1889年(明治22年)憲法発布日の朝、官邸で刺殺されました。
今考えても、人の考えないことを積極的にやっていくことは、たいへん勇気のいる事ですね。
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琉球攻めに出撃した、薩摩水軍の軍港

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関ヶ原で破れ、九州統一の望みを断たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲を見せ、横山久高を総大将・平田増宗を副将として、1609年(慶弔14年)船100余隻、兵3.000人の大軍勢で、琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。
その時、薩摩水軍は鹿児島市春日町に在った軍港、現在の稲荷川河口近くの戸柱橋付近から乗船しました。
当時このあたりは海で、戦国時代(今から約500年程前)に稲荷川河口に港が築かれたことから、そこから滑川(なめかわ)あたりにかけて、相当大きな港町が形成され、船手船蔵(ドッグ)を中心に船頭や水夫、船大工が一団となって住んでいましたが、度重なる洪水により川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されてしまいました。
現在では、軍港跡は埋め立てられており当時の面影もありませんが、鹿児島五社の一つで、奈良の春日大社を本社とする春日大社が建てられています。
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2017年01月26日

来迎寺跡・墓塔群

鹿児島市から国道3号線を北に進むと、市来という町があります。
県指定文化財に指定されている、来迎寺跡墓塔群は、この地を古くから統治していた市来氏歴代の墓や供養塔がかたまって建てられている史跡です。
市来氏は惟宗姓(これむねせい)を持ち、後から赴任してきた、同じ姓を持つ島津氏と、時代によっては敵となり、味方になって市来を統治し続けますが、ついに1462年(寛政3年)市来久家・忠家親子の時、島津氏により滅ぼされました。
来迎寺跡・墓塔群は、藪の遺棄されていたものを積み重ねたものです。五輪塔や宝塔がほとんどで、中には坊主墓と呼ばれる無縫塔(むほうとう)も見受けられます。
墓塔のほとんどが小型で、石材は凝灰岩を使用しているのが特徴です。
また、一基だけ離れた場所にある石塀で囲まれた層塔は、源頼朝の側室とも言われている島津家初代忠久の母、「丹後局」(たんごのつぼね)の墓であると、江戸時代に書かれた、三国名勝図柄に記載されています。
こうなってくると、もはや伝説の域になってきますが、かつてこの地に市来氏という豪族が、隆盛を誇っていたことは間違いありません。
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悲劇の武将「島津歳久」

滝水山心岳寺(ろすいさんしんがくじ)は、島津家15代当主島津貴久の三男・歳久を弔うために、曹洞宗福昌寺の末寺として、慶長4(1599年)、兄の第16代島津義久によって、歳久が自害した場所に創建されました。
境内には、歳久とその殉死者および歴代僧侶、その他の石塔があり、藩政時代の一部を残す貴重な史跡であります。歳久は、天文6(1537年)7月10日、伊作亀丸城で誕生、祖父・忠良(日新)や父・貴久の養育を受けて成長し、長兄・義久、次兄・義弘、弟・家定とともに各地を転戦し南九州統一と九州制覇に尽力しました。
吉田・祁答院を領し、和歌や茶の湯に親しむ文化人としての側面もありましたが、その気性は荒く、豊臣秀吉の薩摩侵攻に際しては最後まで抵抗したため秀吉の怒りを招き、義久に討伐令が出されました。
追手に捕まりそうになり、天正20(1592年)7月18日に自害するに至りました。
往時は「心岳寺詣り」と称する旧暦7月18日の祭礼には多くの参拝の人々でにぎわっていましたが、明治2(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺となり、翌年跡地に平松神社が建立されて現在に至っています。
場所は、国道10号線を加治木方面へ向かい、姶良市との境界に近い左手側ですが、分かりづらい場所なのでご注意下さい。
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2017年01月25日

海浜院跡に残る石碑

海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
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海浜院跡に残る石碑

海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
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洋式紡績所の英人技師7人の居館「異人館」


「西洋の進んだ文化や技術を積極的に学ぶべし」。薩英戦争で西洋の技術力を見せつけられた薩摩藩は、1865年(慶応元)国禁を侵して使節と留学生19人をイギリスに派遣しました。
向学心に燃える青少年達を引率した、新納久修(ひさのぶ)・五代友厚らには、もう一つの重要な任務が託されていました。新時代にふさわしい産業の導入と、その技術を教える技師の招聘です。
薩摩藩最後の藩主・島津忠義は、先代・斉彬の意志を継いで、近代的な紡績工場の建設を計画しました。
五代らはイギリスの工業地帯むを回り、梳綿機(そめんき)10台、精紡機6台を買い付け、技師7人を招くことに成功しました。
1866年(慶応2)11月、まず始めに司長のイ=ホーム一行4人が到着。翌年の正月には工務長ジョン=テットロウ、ついて技師2人が加わり、工場の完成に先駆けて白いペンキ塗りの木造2階建の宿舎が完成しました。
後に異人館と呼ばれたこの技師居館は、日本最初の洋式紡績工場とともに、先進地・薩摩のシンボルともいうべき存在になりました。
維新後、鶴丸城跡に移され、七高造士館本館として使用されましたが、再び元の位置に戻され、現在は国の重要文化財として保存されています。
仙巌園の道路向かいですので、是非セットでご観覧下さい。
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2017年01月24日

ザビエルを日本に案内した男

鹿児島三代大行事の一つ「妙円寺詣り」の道沿いに、小さな墓のような遺跡がぽつんとあります。
ザビエルを薩摩へ案内してきた日本人、ヤジロウ(一説にはアンジロウ)の墓だともいわれています。
ヤジロウは薩摩出身の人で、ポルトガル商人の案内でマラッカで、宣教中のフランシスコ・ザビエルと出会い、ザビエルに日本宣教を決意させます。
インドのゴアで日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けた後、ザビエルを日本に案内しました。
天保18年(1549年)8月15日、ヤジロウの導きで薩摩藩の城下、祇園ノ洲に上陸したザビエルは、ヤジロウの紹介で当時の領主・島津貴久と会見し、宣教の許可を受けました。
城下で半年程布教活動をした後、ザビエル一行が長崎、山口、京都と布教の旅に出た後もヤジロウは薩摩に留まり、500人近くの人々を改宗させました。しかしその後の足取りは今持ってよく解っていません。
ザビエルと共に日本を離れたのか、薩摩を出て、国内で亡くなったのか今となっては、調べようもありません。
何はともあれ、ヤジロウはこの時代に異国を目のあたりにした、ごく少ない日本人であった事には変わりはないでしょう。
西洋の大型船が出入りし、色んな国からの人々で賑わうマレーやインドを、彼の目はどうとらえていたのでしょう。

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陸軍の近代化に捧げた生涯。

鹿児島城下、下加治屋町に生まれた大山巌(いわお)。
「ナポレオン以来の戦略家」「ブルドッグの如き猛将」「人格はグランド将軍、戦略はリー、ジャンクソンの両将軍に伍する」日露戦争で満州軍総司令官として、奉天大会戦に勝利した大山巌元帥の名声は、世界を駆け巡りました。
1842年(天保13年)生まれ、幼名は、岩太郎、後に弥介改め大山は、西郷隆盛が郷中頭を務める下加治屋町で育ちました。西郷隆盛とは母親同士が姉妹で、従兄弟にあたります。
西郷の弟、従道(じゅうどう)とは特に仲がよく、血気にはやり過ぎて謹慎を命ぜられたり、薩英戦争ではスイカ売りに化けての決死隊に加わるなど、ボッケモンとしての逸話が多く残されています。
維新後、砲術を学び陸軍に身をおいた大山は、フランス留学の後、陸軍の近代化につとめ、初代陸軍大臣に就任。日清・日露の両戦争の活躍によって元帥公爵という最高の地位を与えられました。
東洋の豪傑のイメージとは逆に、ハイカラを好み、豪壮なシュロス(西洋城)にすみという生活ぶりでした。1916年(大正5年)に75歳で永眠、国葬によって那須(栃木県)に葬られました。
日本陸軍の創設、近代化に捧げた生涯でしたが、西南戦争で西郷隆盛ら薩摩の同胞達と、敵味方に別れて戦わざるおえなかったことを終生気にしており、二度と薩摩に帰ることはありませんでした。
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2017年01月23日

篤姫の育った「今和泉家本家跡」の石垣

似たような場所が続きますが、篤姫フアンの方々のためにもう1記事(笑)
篤姫は、天保6年(1835年)薩摩藩・島津家の分家の一つ今和泉島津家10代忠剛の娘、一子(かつこ)として、鹿児島城下に生まれました。
1853年、島津家28代藩主・島津斉彬の養子として島津本家に迎えられます。名を篤姫と改められ、安政3年(1856年)徳川幕府第13代将軍・家定の御台所となりますが、安政5年(1858年)夫・家定が死去した後、落飾して天瞕院と号するようになります。
その後、世の流れは大きく倒幕へと傾き、討幕派の先頭に立っていたのは、皮肉にも実家である薩摩藩でしたが、最後まで江戸城に留まり、徳川家の存続や江戸城無血開城に大きな役割を果たし、明治16年(1883年)に亡くなりました。
篤姫は、鹿児島城(鶴丸城)の北東に位置する、ここ今和泉家島津本邸で生まれ育っています。
現在、屋敷自体は残っていませんが、当時の家格をしのばせる高い石垣が残っています。
すぐ前が観光地巡回バスのバス停ですので、途中下車して、南州墓地とセットでの観光をおすすめします。
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