2017年01月24日
ザビエルを日本に案内した男
鹿児島三代大行事の一つ「妙円寺詣り」の道沿いに、小さな墓のような遺跡がぽつんとあります。
ザビエルを薩摩へ案内してきた日本人、ヤジロウ(一説にはアンジロウ)の墓だともいわれています。
ヤジロウは薩摩出身の人で、ポルトガル商人の案内でマラッカで、宣教中のフランシスコ・ザビエルと出会い、ザビエルに日本宣教を決意させます。
インドのゴアで日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けた後、ザビエルを日本に案内しました。
天保18年(1549年)8月15日、ヤジロウの導きで薩摩藩の城下、祇園ノ洲に上陸したザビエルは、ヤジロウの紹介で当時の領主・島津貴久と会見し、宣教の許可を受けました。
城下で半年程布教活動をした後、ザビエル一行が長崎、山口、京都と布教の旅に出た後もヤジロウは薩摩に留まり、500人近くの人々を改宗させました。しかしその後の足取りは今持ってよく解っていません。
ザビエルと共に日本を離れたのか、薩摩を出て、国内で亡くなったのか今となっては、調べようもありません。
何はともあれ、ヤジロウはこの時代に異国を目のあたりにした、ごく少ない日本人であった事には変わりはないでしょう。
西洋の大型船が出入りし、色んな国からの人々で賑わうマレーやインドを、彼の目はどうとらえていたのでしょう。
ザビエルを薩摩へ案内してきた日本人、ヤジロウ(一説にはアンジロウ)の墓だともいわれています。
ヤジロウは薩摩出身の人で、ポルトガル商人の案内でマラッカで、宣教中のフランシスコ・ザビエルと出会い、ザビエルに日本宣教を決意させます。
インドのゴアで日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けた後、ザビエルを日本に案内しました。
天保18年(1549年)8月15日、ヤジロウの導きで薩摩藩の城下、祇園ノ洲に上陸したザビエルは、ヤジロウの紹介で当時の領主・島津貴久と会見し、宣教の許可を受けました。
城下で半年程布教活動をした後、ザビエル一行が長崎、山口、京都と布教の旅に出た後もヤジロウは薩摩に留まり、500人近くの人々を改宗させました。しかしその後の足取りは今持ってよく解っていません。
ザビエルと共に日本を離れたのか、薩摩を出て、国内で亡くなったのか今となっては、調べようもありません。
何はともあれ、ヤジロウはこの時代に異国を目のあたりにした、ごく少ない日本人であった事には変わりはないでしょう。
西洋の大型船が出入りし、色んな国からの人々で賑わうマレーやインドを、彼の目はどうとらえていたのでしょう。
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