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2017年01月25日
海浜院跡に残る石碑
海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
海浜院跡に残る石碑
海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれるほど多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。
海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000u(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎ、赤十字病院として、現在は平川に移転しています。
洋式紡績所の英人技師7人の居館「異人館」
「西洋の進んだ文化や技術を積極的に学ぶべし」。薩英戦争で西洋の技術力を見せつけられた薩摩藩は、1865年(慶応元)国禁を侵して使節と留学生19人をイギリスに派遣しました。
向学心に燃える青少年達を引率した、新納久修(ひさのぶ)・五代友厚らには、もう一つの重要な任務が託されていました。新時代にふさわしい産業の導入と、その技術を教える技師の招聘です。
薩摩藩最後の藩主・島津忠義は、先代・斉彬の意志を継いで、近代的な紡績工場の建設を計画しました。
五代らはイギリスの工業地帯むを回り、梳綿機(そめんき)10台、精紡機6台を買い付け、技師7人を招くことに成功しました。
1866年(慶応2)11月、まず始めに司長のイ=ホーム一行4人が到着。翌年の正月には工務長ジョン=テットロウ、ついて技師2人が加わり、工場の完成に先駆けて白いペンキ塗りの木造2階建の宿舎が完成しました。
後に異人館と呼ばれたこの技師居館は、日本最初の洋式紡績工場とともに、先進地・薩摩のシンボルともいうべき存在になりました。
維新後、鶴丸城跡に移され、七高造士館本館として使用されましたが、再び元の位置に戻され、現在は国の重要文化財として保存されています。
仙巌園の道路向かいですので、是非セットでご観覧下さい。