アフィリエイト広告を利用しています
 google-site-verification: google0d025a89a71077d0.html

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2017年01月12日

今も続く薩摩の伝統行事A

鹿児島の三大行事の二つ目は、「曽我どんの傘焼き」というものがあります。
市内を二分して流れる甲突川の砂州で、クリスマスツリーの様にやぐらを組み、そこに何百本の和傘を飾りつけ、最後にそれに火を付けて盛大に燃やすという伝統行事です。
暗くなってからフィナーレの点火までには、示現流の演舞や曽我兄弟の歌の歌い上げどがあり毎年6月後半〜7月の中旬までのいずれかの日に行われます。
そもそも曽我兄弟とはなんぞやと思われる方が大半でしょうが、非常に込み入った話なのでかなり端折らせてもらいます。時代は鎌倉時代、場所は相模の国での話です。領地をめぐる争いで父を殺された五郎、十郎の兄弟が長じて源頼朝の家臣になっていた憎き仇を、頼朝が行った鷹狩りに乗じて討ち、みごと武士の本懐をとげたことを称える行事です。
古事によれば兄弟が仇討ちを決行したのは夜で、仇を捜すのに持っていた傘に火を付けて松明代わりとして捜したと伝えられているからです。若き日の西郷、大久保達も参加した薩摩の国の古くからの行事なのです。
島津氏の祖先、惟宗氏は頼朝に仕える御家人だったので、この事件を間じかで体験したのではないでしょうか。
それが薩摩では代々受け継がれ、現代まで受け継がれ、このような行事になったのでしょう。

kasa02.jpgkasa08.jpg










今も続く薩摩の伝統行事@

鹿児島には「妙円寺参り」という伝統行事があります。
関ヶ原の戦いに参戦し、西軍の主力大名達の軍勢が次々と敗走するなか、「敵に背を向け逃げるは武士の道にあらず。」と、東軍がひしめくど真ん中に突撃しながら突破して、命からがら薩摩に帰ってきた、島津家代17代当主義弘公。彼は、少年〜青年期を過ごした伊集院の妙円寺を自らの菩提寺と定め、公が85歳で天寿を全うするとその地に墓所が建てられました。
鹿児島に住む城下士達は、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた前日、旧暦の9月14日の夜に伊集院の妙円寺に詣で、夜が明ける前に鹿児島城下まで戻り、なにくわぬ顔で普段通りに仕事をしたといいます。
義弘公の苦難を思えば、何の事も無い。という薩摩武士の心意気だったのでしょうか、大久保利通の青年時代の日記に「妙円寺参りに初めて参加し、感動した」という記載もあるそうです。
それにしても鹿児島市中心部から伊集院の妙円寺まで片道30キロ以上はあるでしょう。夜のうちに往復するのは大変なことだったでしょうが、毎年欠かさず幕末まで続きました。
現在でも様々なグループ単位で毎年続けられておられますが、さすがに往路は歩きで復路はバスという方々が多いようです。
妙円寺は明治2年の廃仏希釈令で廃寺になり、代わりに徳重神社が建てられました。義弘公は豪放でありながら義に厚い方で、藩士達からもとても慕われていたといわれます。薩摩藩でも当時、殉死禁止令が出ていたにも関らず、13名もの藩士が義弘公の後を追い、殉死されました。
徳重神社の境内に13基の供養塔が並んでおり、殉死された方々の名前がそれぞれに刻まれています。

20100528123239.jpg20100528122350.jpg




若くして散って逝かれた英霊達へのレクイエム

特攻基地と武家屋敷の町として、県外の方々にもよく知られている知覧。
市町村合併で、今では南九州市知覧になりましたが、団体旅行では外せない町です。
特攻基地=知覧と認識されている方が多いと思いますが、太平洋戦争末期沖縄に集結したアメリカの膨大な艦船に向かい、重い爆弾を抱いて出撃していかれた特攻基地は鹿児島県内にいくつも有りました。
万世、出水、国分、串良、鹿屋等、宮崎県都城からも出撃していかれたのです。
なぜ南九州だけから特攻出撃が成されたのか?理由は単純です。敗戦色が色濃くなってきたこの時期、国内に飛行機を飛ばす為の燃料は底をつきかけており、沖縄までもっとも少ない燃料ですむからです。
知覧から出撃された御霊は1.036名です。しかし数からいくと一番多く出撃されたのは鹿屋の基地からで2.000名を越えます。彼ら飛行機乗りは国内はおろか台湾、韓国、中国等の基地から南九州の各基地に集められ、一時の時間を過ごされ、オンボロ飛行機にぎりぎり沖縄まで飛ぶことが出来る片道分の燃料と500キロ爆弾を腹に抱えて、帰る事の無い南の海へ撃飛び立って逝かれたのです。
知覧が有名になったのは、通称特攻の母「鳥浜トメさん」の存在が大きいでしょう。当時知覧で唯一の軍の認定をうけた富屋食堂を経営しておられ、そこはいつ出撃命令が出るか分からない隊員達が酒を飲み騒ぐことで死の恐怖をいっときでも忘れる事ができる場所でした。
遠くの県の出身者のほとんどは、肉親と最後の別れもできず出撃の日を迎えるなか、若い隊員達はトメさんに母親の面影を投影していたのでしょう。
しかし、トメさんにとってはとても残酷な日々でした。毎晩のようにお店に来て、名前も憶え「おばちゃん、おばちゃん」と慕ってくれていた隊員達が毎日のように出撃していくのです。
いったいどれほどの涙を流されたのか、察するに余りあります。また隊員達も、特攻という名を借りた自殺命令を心の中でどう決着をつけて出撃していかれたのでしょうか。
当時の帝国主義国家が都合よく作りだした絵空事、「戦争で死んだ者は軍神となり、その御霊は永遠に靖国神社に祀られる。」という言葉を無理やり自分の心に動議付けされて逝かれたのでしょうか。
出撃の前に別れの水盃を交わし、気丈にも笑顔で敬礼しながら「靖国でまた合おう」を最後の言葉に、出撃して逝かれた特攻隊員の無念さはいかばかりのものだったのか、考えるだけで涙を禁じえません。諸外国からの圧力がどうあろうとが日本という国が存続する限り、その時々の政府は靖国を守っていく責任があるのではないでしょうか。
私は10回以上特攻平和会館を訪れていますが、今でも戦争の犠牲になり散っていかれた若者達の遺書を読んでいくと涙が止まりません。平和日本の礎となられた若者達の気持ちを受け止め、二度とあのような戦争を起こさせない為にも一人でも多くの方々に訪れていただきたいとおもいます。

20100514152502.jpg20100514151514.jpg


FUJIFILM製ナノアスタキサンチンを高濃度配合





ファン
検索
<< 2017年01月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
宮崎県佐土原に島津家の痕跡を探して@ by ブルガリ時計 スーパーコピー miumiu (12/26)
西郷隆盛の子孫達A by エルメス マフラー メンズ 価格 (12/23)
西郷隆盛の子孫達A by プレゼント用に購入したので、配送日が気がかりでしたが2日後に到着しました。その間、受注や発送の連絡もしっかり届き、安心できました。もちろん商品も大満足です♪☆新品同様☆ ★シャネル シャネル★ミロワール ドゥーブル ファセット★コンパクトミラー/拡張鏡★ブラック★140213004★中身が新品同様ならば問題なし‥と、気心知れた友人への誕生日プレゼントに選びました。実際は、使用感が全く感じられないばかりか箱までも新品同様の品、“拡大鏡付きのコンパクトミラーがほしい!”と言っていた彼女は大喜びでした♪ (12/22)
西郷隆盛の子孫達A by ルイ ヴィトン 採用 toeic (12/19)
徳の交わり@ by ブルガリ時計 買取 tsutaya (12/12)
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール
hyourokudonさんの画像
hyourokudon
鹿児島市内で商いをしているおじさんです。 見どころいっぱい、美味しいものも沢山の鹿児島へ 一人でも多くの方々に遊びに来て頂きたいです。
プロフィール
日別アーカイブ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。