2017年01月27日
琉球攻めに出撃した、薩摩水軍の軍港
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関ヶ原で破れ、九州統一の望みを断たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲を見せ、横山久高を総大将・平田増宗を副将として、1609年(慶弔14年)船100余隻、兵3.000人の大軍勢で、琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。
その時、薩摩水軍は鹿児島市春日町に在った軍港、現在の稲荷川河口近くの戸柱橋付近から乗船しました。
当時このあたりは海で、戦国時代(今から約500年程前)に稲荷川河口に港が築かれたことから、そこから滑川(なめかわ)あたりにかけて、相当大きな港町が形成され、船手船蔵(ドッグ)を中心に船頭や水夫、船大工が一団となって住んでいましたが、度重なる洪水により川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されてしまいました。
現在では、軍港跡は埋め立てられており当時の面影もありませんが、鹿児島五社の一つで、奈良の春日大社を本社とする春日大社が建てられています。
関ヶ原で破れ、九州統一の望みを断たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲を見せ、横山久高を総大将・平田増宗を副将として、1609年(慶弔14年)船100余隻、兵3.000人の大軍勢で、琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。
その時、薩摩水軍は鹿児島市春日町に在った軍港、現在の稲荷川河口近くの戸柱橋付近から乗船しました。
当時このあたりは海で、戦国時代(今から約500年程前)に稲荷川河口に港が築かれたことから、そこから滑川(なめかわ)あたりにかけて、相当大きな港町が形成され、船手船蔵(ドッグ)を中心に船頭や水夫、船大工が一団となって住んでいましたが、度重なる洪水により川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されてしまいました。
現在では、軍港跡は埋め立てられており当時の面影もありませんが、鹿児島五社の一つで、奈良の春日大社を本社とする春日大社が建てられています。
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