2017年01月23日
篤姫の育った「今和泉家本家跡」の石垣
似たような場所が続きますが、篤姫フアンの方々のためにもう1記事(笑)
篤姫は、天保6年(1835年)薩摩藩・島津家の分家の一つ今和泉島津家10代忠剛の娘、一子(かつこ)として、鹿児島城下に生まれました。
1853年、島津家28代藩主・島津斉彬の養子として島津本家に迎えられます。名を篤姫と改められ、安政3年(1856年)徳川幕府第13代将軍・家定の御台所となりますが、安政5年(1858年)夫・家定が死去した後、落飾して天瞕院と号するようになります。
その後、世の流れは大きく倒幕へと傾き、討幕派の先頭に立っていたのは、皮肉にも実家である薩摩藩でしたが、最後まで江戸城に留まり、徳川家の存続や江戸城無血開城に大きな役割を果たし、明治16年(1883年)に亡くなりました。
篤姫は、鹿児島城(鶴丸城)の北東に位置する、ここ今和泉家島津本邸で生まれ育っています。
現在、屋敷自体は残っていませんが、当時の家格をしのばせる高い石垣が残っています。
すぐ前が観光地巡回バスのバス停ですので、途中下車して、南州墓地とセットでの観光をおすすめします。
篤姫は、天保6年(1835年)薩摩藩・島津家の分家の一つ今和泉島津家10代忠剛の娘、一子(かつこ)として、鹿児島城下に生まれました。
1853年、島津家28代藩主・島津斉彬の養子として島津本家に迎えられます。名を篤姫と改められ、安政3年(1856年)徳川幕府第13代将軍・家定の御台所となりますが、安政5年(1858年)夫・家定が死去した後、落飾して天瞕院と号するようになります。
その後、世の流れは大きく倒幕へと傾き、討幕派の先頭に立っていたのは、皮肉にも実家である薩摩藩でしたが、最後まで江戸城に留まり、徳川家の存続や江戸城無血開城に大きな役割を果たし、明治16年(1883年)に亡くなりました。
篤姫は、鹿児島城(鶴丸城)の北東に位置する、ここ今和泉家島津本邸で生まれ育っています。
現在、屋敷自体は残っていませんが、当時の家格をしのばせる高い石垣が残っています。
すぐ前が観光地巡回バスのバス停ですので、途中下車して、南州墓地とセットでの観光をおすすめします。
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