2017年01月22日
島津今和泉家近くの砲術館跡
NHKの大河ドラマで有名になった「篤姫」の育った、今泉島津家の屋敷跡に近くに、島津斉興の肝煎りで造られた洋式砲術の訓練所のあとがあります。
アメリカのモリソン号が山川沖に来航した1837年(天保8)を機に、斉興は洋式砲術の採用をきめました。
翌年、鳥居平八、平七兄弟を長崎に派遣して、高島秋帆(しゅうはん)の洋式砲術を学ばせ、1847年(弘化4)8月、砲術館をこの地に開き、平七(改名して成田右衛門)を師範役としました。
1848年(弘化5)9月、現在の吉野町で砲術の訓練を始め、同時に砲台の建設と平行して大砲鋳造や小銃を造る場所はを上町築地(現在の浜町)の弁天社のかたわらに建設しました。
28代当主、斉彬も積極的に洋式砲術を取り入れ、力を注ぎました。1846年(弘化3)8月、谷山の中塩屋(現在の射場山)で、成田正右衛門が師範役として砲術の訓練を実施した時の「問答所」も残されています。
さらには、1854年(安政元)1月5日、洋式騎兵を創設し、17日には吉野原で砲術の大訓練を実施しました。
当時の諸藩の中でも、外国からの侵略にいち早く対応したのは、三方を海に面した薩摩だったからだったのでしょうか。
アメリカのモリソン号が山川沖に来航した1837年(天保8)を機に、斉興は洋式砲術の採用をきめました。
翌年、鳥居平八、平七兄弟を長崎に派遣して、高島秋帆(しゅうはん)の洋式砲術を学ばせ、1847年(弘化4)8月、砲術館をこの地に開き、平七(改名して成田右衛門)を師範役としました。
1848年(弘化5)9月、現在の吉野町で砲術の訓練を始め、同時に砲台の建設と平行して大砲鋳造や小銃を造る場所はを上町築地(現在の浜町)の弁天社のかたわらに建設しました。
28代当主、斉彬も積極的に洋式砲術を取り入れ、力を注ぎました。1846年(弘化3)8月、谷山の中塩屋(現在の射場山)で、成田正右衛門が師範役として砲術の訓練を実施した時の「問答所」も残されています。
さらには、1854年(安政元)1月5日、洋式騎兵を創設し、17日には吉野原で砲術の大訓練を実施しました。
当時の諸藩の中でも、外国からの侵略にいち早く対応したのは、三方を海に面した薩摩だったからだったのでしょうか。
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